2 戦中の日本人
日本人はもともと特には精神主義ではない。神道は物
の豊穰を祈る信仰で、禁欲の戒律も乏しい。『菊と刀』
にも書かれているように、肉体的快楽をよいものと考え
ている。キリスト教のように人間を霊と肉に分けて肉を
否定するようなことはしない。伝統的社会も「仁義ある
のみ」の儒教の精神主義ではなく、「富国強兵」の法家
的物質重視主義に沿っていた。がしかし、徳川幕府が
儒教を正式に取入れてからは精神主義に傾くが、戦で
の敢闘精神は昔からのものだった。戦争中に精神主
義が高まったのは交戦当時の清国も国力は日本に勝
っていたし、日露戦争も国力が格段に上の国との戦争
だったので、これを組織力と敢闘精神で戦い勝利した
から、精神主義が芽生えたのは確かだろう。自国に国
力が勝る大国と戦わなければならない歴史の宿命で、
いよいよ最強のアメリカと戦うのだら敢闘精神に集中
するしかない。日本はアメリカ国民の戦意を削ぐのが
狙いだったが、戦争末期には他の資産は使い果たし
精神にしか頼るものが残されてい なかった。
捕虜の扱いの問題は、ビンタを張ることが日本軍の悪
弊になっていた。ビンタはフランスがアフリカ人を軍事
訓練する時にやったものらしい。幕府はフランス軍の
助力を得て近代戦を学んだようなのでこの時に日本に
持ち込まれる。軍は捕虜の管理に朝鮮出身兵をあて
た。この兵が劇しい扱いをしたようだ。「虜囚の恥ずか
しめを受けず」の問題は日本が相手にしなければなら
なかった敵国は捕虜の国際条約を遵守するような相手
ではないのである。国際条約違反はアメリカもその例
にもれない。焼夷弾と核で民間人を焼き殺した。占領
軍が禁止されている内政干渉を行った。日本の相手は
国際間の“義理”を知らない野蛮国ばかりだ。
日本軍は敢闘精神を発揮した兵隊には敬意をもって
対応している。日本軍が敵兵も手厚く弔うのは伝統で
ある。ところで、中国人が南京で日本軍が大虐殺・婦
女姦淫をはたらいていたと告発している期間に、南京
ではアメリカ人がビンタを張られた事件が起る。一週間
その話題で持ち切りだったそうだ。大虐殺よりビンタの
ほうが話題性があるらしい。
3 恩
女史は戦争中に知ったあの極端な自己犠牲は日本人
が債務を負っているさまざまな責務から来ていて、そ
の観念はわれわれには未知のもので、それに当たる
日本語は恩であると書いている。恩は本当はアメリカ
人に不可知なものではない。アメリカ人も恩に着るので
ある。アメリカでは奨学金をもらって大学で学び、社会
に出た成功者が通った大学に寄付する習慣がある。こ
れが恩にまつわる一連の行為である。奨学金をもら
う、大学の教授にねんごろな指導を受ける、これが恩
である。この恵みを受けるたことをありがたいと感謝す
る。これを恩に着るという。社会に出て成功し感謝の念
を込めて大学に寄付する。これが恩返し・報恩である。
恩情は恵みを受けること、即ち助けられる、救われる、
育てられる、大切にされる、親切にされる、ことから生
まれる。この恩をルース女史は“債務の負い目”と定義
する。そして、われわれアメリカ人は愛を義務の拘束な
く自由に与えるものと書いている。無償の愛、アガペと
言うやつだ。アメリカ人とは神のごとき人々なのだ。こ
んなこと臆面もなく言えるのだから恥の感覚が日本人
と違うのを窺わせる。そしてカミカゼ自殺機搭乗員も硫
黄島の玉砕も、皇恩への負い目の返済なのだとみる。
さらに孝行も親の恩への負い目なのだと書く。また「す
みません」は感謝の言葉として使われるがこれは恩を
提供してもらったが、そんなことしてもらって後ろめた
い気がする。あやまればいくら か気が楽になるが恩返
しするにも、どうにもしようがないことだ。として使われ
ると書く。これでは日本人はまるで何もかも損得勘定で
やるように見えるではないか。ルースよ、それほどまで
に貶ケナしたいのか、底意地の悪い女だな。そんな女
が「カタジケナイ」を意味付けると恥辱を表わす漢字が
当てられるので「このような恩を受けて面目を失った。
賤しい身分の私にはふさわしくないことで遺憾に思う
が、丁重に感謝する」となる。すでに死語になっている
文語をもちだしたが、確かにカタジケナイには過分な評
価や待遇に恥じらいを感じているが、あくまでも丁重に
扱われたことへの感謝の念を表明した言葉であり、面
目を失ったと恨んでいるのではない。恥じらいを感じる
のは日本人の内省性の高さ、奥ゆかしさである。どこ
ぞの民族のように天狗 になって、つけあがるのではな
い。また、いろいろ下らないことを書いているが論評は
すっ飛ばして結論を急ごう。恩における一連の現象は
太古互恵社会を営んでいた人類の習 性から出てきて
いるでしょう。互恵集団で狩で獲物を射止め、多目の
分配を得たものは少しの分配にしか預からなかったも
のに分け与えた。この行為は互恵集団内で折返され
る。これが恩と報恩の原形であり、贈与である。互恵集
団が他の互恵集団とそれぞ れの財を物物交換するこ
ともある。この場合は等価同時交換で、これが売買契
約取り引きの原形である。女史は恩と報恩また贈与と
反復贈与を売買契約に見せ掛けようとしている。契約
では債権債務が生じ、財物を買ったものは対価を必ず
支払はなければならない。これは逃れられない義務債
務である。方や、報恩は原則出世払いであり、余裕が
できた時に返す。ルースは報恩、そしてまた日本人の
人間関係の礼儀・掟である義理を債務であることを示
そうとして、返礼は利息みたいなもので時間が経過す
ると大きくなると嘘をつく。具体例として、日本人の出
版者がアメリカ人著者への返礼の遅れで、桜の木の礼
物が盛大になって「きっと、あなたは返礼が遅れてよか
ったと思っているでしょ う」などと、遅れて得になってよ
かったなどと言わせている。日本人が、そんなはしたな
いこと、言うか! 言ったとすればアメリカ人の通訳が
口を挟んだセリフだろう。また、ある商人のかっての先
生の甥があらわれて、金銭の援助を求める。生徒だっ
たころからずいぶん歳月が経過しているので先生の恩
の負債は膨らんでいる。商人は世間への申し訳に不
本意ながら支払わなければならない、と。そんなバカ
があるか! 日本人の付き合いを損得勘定だけと、間
抜けな作り話で印象付けようとしている。それは家族
関係にまでおよぶ。長々と書いてくると次第に地金が
出てくるのか「親は子供のために多大の犠牲を払い、
妻は夫のためにその生涯を犠牲にし、夫は一家の生
計を立てるために自己の自由を犠牲にするのが、まず
標準的な西欧人の信条である。」と告白した。無償の
愛に満ちている家庭でそんなにも誰も彼も犠牲者と感
じているのか? それはさておき、日本では親の恩愛
の報酬は子の絶対服従であると書いている。料理屋を
経営しているある母親は公金をちょろまかした。その母
親の息子の妻は責任を取って子供を道ずれに自殺す
る。自分の家庭を破壊されたその息子は母に一言いう
こともなく人格を練り上げるために独り北海道に旅立
つ。何と荒唐無稽な話しであるがこれが日本映画の筋
なのである。儒教の孝行譚「子は親のために罪を隠
し、親は子のために悪を隠す」には、ありそうな話だ
が、よほどお母さん子の息子である。お見合いの話も
出てくる。お見合いでは「いやだ」と言うこともできる。
でも世界には親同士の約束で当人同士は顔も見ない
で結婚する習慣の国もある。日本だけではない伝統的
国の“家長支配”の習慣である。家長は家柄を保ち、で
きることなら家柄を上昇させるのが務めである。アメリ
カだって上流階層は家柄を考えないはずはない。それ
が閨閥である。「地震、雷、火事、おやじ」が日本では
忌わしいものなっていると書く、ほんとに昔は親父は怖
がられた、いまではアメリカ文化のせいで?粗大ゴミ扱
いだ。嫁と姑の反目にも触れ、嫁は将来自分の息子の
嫁に対して権力を揮う日の到来を楽しみにして待って
いると、底意地の悪い推測をしている。「日本の孝行の
特徴である家族相互間に見られる顕著な怨念。」なの
だそうだ。では、欧米で「スープの冷えない距離」はど
んな意味か。親と子供夫婦の間の距離なのではない
か。愛に溢れている家庭でなぜ三世帯一緒に住めな
いのか、東洋人から見たら寂しいではないか。核家族
は個人主義、自由主義の欧米の最新文化か? でも、
太古から現在にもそんな生活を楽しんだ民族がいる。
南米の狩猟採集民であるムブティー・ピグミーは蜜猟
の時季になると各家族はそれぞれが見つけた蜜のそ
ばに引っ越してばらばらな生活に入る。村のキャンプを
離れることを選ぶ意味は自由気ままな生活を楽しむ。
共同生活は規律に従うこと、気を使うことも多い。 集
落・社会とは人にとって親しいものでもあり、わずらわ
しいものでもある。生計が自足できる時期は自由な生
活を選ぶのである。ところで昔15世紀まで、ヨーロッパ
は貧しかった。オリエント貿易で輸出するものは毛皮
か蜜ろう位しかなかった。そんなヨーロッパでは黒海貿
易が行なわれていた。そこでは美人の産地のポーラン
ドやまたスラブ民族から略取してきた奴隷を売ってい
た。奴隷は限りなく利益の多い輸出品だった。イギリ
ス、フランス、スペイン、オランダ、ポルトガルの主要な
産業だった。身に付いた天性の狂暴性と奸智でアフリ
カやアジアからも略奪できるようになると、各々家庭に
も余裕が出てくる。そこでヨーロッパ人は家族相互間の
怨念を断ち切るために核家族に移行していった。この
ようにルース女史よろしく、嫌みったらしく推察しますが
外れているだろうか。
4 日米のしつけ
幼児の躾の欧米と日本の違いに付いて書いている。
欧米は生まれ落ちた時から躾を始める。授乳や就寝
時間を守らせる。指を加えたり、性器に触れるのを禁
止するために手を叩く。母親はしばしば姿を消す。出
かけた時は家にて待たなければならない。決められた
ことをしなければ罰せられる。ところが日本では赤ん坊
と老人を自由に我がままにさせている。今や保育学で
は幼児にこんなに負荷をかけるのは間違いなのであ
る。唖然とさせられる記述だ。
日本では壮年期の体力もあり、金もうけする能力も頂
点に達する時期に自分の生活を好きなように過ごす権
利を認められないと書く。ルース女史ますます地金を
表わしてきた。能力の頂点に達する自由時間に金もう
けをするのだそうだ。アメリカ人らしい。中西輝政氏に
よると、アメリカに渡ったピューリタンは「お金が儲から
ないアメリカには何の価値もない」と、書き残している
のだそうだ。「心、利上の一途に走り」(横井生書簡)は
間違った観察ではなかったのである。
ある白人の観察者は日本人ほど子供を可愛がる親は
いない。日本人ほど親を信頼している子供はいないと
綴っていた。女史の躾の実体の強制性を知ると親子関
係が思い知らされる。犯罪者を追い詰めて包囲した場
合、日本では母親を連れてきて罪に服くするように説
得させる。ところが、アメリカではそんなことをすれば犯
人を興奮させるのでやってはいけないことなのだ。幼
児期、親の強権の罰に伏くした犯人は親の顔を見ると
恐怖するのは当然のことだろう。欧米は親子の関係も
脅しで始まっているのである。こんなことも書いてい
る。「アメリカ人の良心がいかに罪の意識に悩んでいる
かと言うことは、すべての精神病医の承知している所
である」。こんなことを自慢している。バカか! 未だ幼
児が、授乳や就寝時間を守らされ、指をくわえたり、性
器に触れて手を叩かれ、決められたことをしなければ
笞打たれる。そんな幼児体験をもった人間が罪悪脅迫
症に陥るのは無理もないことである。
ヨーロッパでは教師も笞を使う。中国の漢字の教の又
は笞を表わしている。日本の親子関係との違いを知れ
る民話がある。うる覚えで申し訳ないが次のような話で
した。「不良息子が死んだが、葬った墓から腕が飛び
出してきた。牧師に相談すると、笞で懲らしめなさいと
助言される。母親は日夜笞を振るった。肉はちぎれ、
白い骨があらわになる。なおも数日笞を打ち続けると
腕は土中に埋もれていった」。日本の親子関係では生
まれ得ない筋立てである。女史は日本の子供は何一
つ神々を恐れる、また神々に監視されていると思わせ
る教育を受けないと書いている。幼児は神などと言わ
れても分からないから少し大きくなると神の目の監視
を教わる。親の目や他人の目は誤魔化せても神の目
はごまかせない。これは最終的な脅しである。これは
道徳規範ではなく法秩序の形式だ。欧米の子供は欧
米人の愛好する用語“内面の良心”を働かせる余地が
あるのか? 神の目は他律的規範だ。では、日本の子
はどのように教育されているのか。日本でも民話は子
供への訓戒として働きがあった。「六部の霊」はこんな
話だ。昔昔、ある所に百姓屋があった。月夜の晩、六
部がやってきて、一晩止めてくれと頼んだ。どっさり金
をもってそうなんで、親父は泊めてやる。夜中におやじ
は、枕がずれてるよと、頭を持ち上げて、押切りをあて
て首を切ってしまった。その後、立派な家を立てる。ま
もなく、男の子が生まれる。唖だった。その子が十三に
なったある月の夜、おっかさんが小用をさせようとする
と聞かないので、おやじが、この餓鬼、おれが連れて
いくと立って厠に行った。おしの子が、おとっさん、ちょ
うど今夜のような晩だったな、といった。おやじがハッと
思って顔を見ると、あの六部の顔だった。以上。 ここ
にはおやじを罰する神様も他人の目も出て来ない。出
てくるのは殺害者のおやじと被害者の六部だけだ。加
害者は被害者に面と向かって責められる。これは加害
者の恐れは第三者の目の判断にあるのではなく、被害
者の災いを推し量る加害者の内心にあるのだ。西欧の
民話はあのアダムとイブの失楽園の教話が典型的で
ある。罰するのは被害者ではなく第三者の裁判官の神
である。さらに蛇や女に当たるものが出てくる。これは
唆ソソノカす者である。アダムは唆されて罪を犯す。ア
ダムの罪は半減する。西欧の民話では被害者の影は
ない。被害者への加害者の思い、罪悪感は感じられな
い。ただ神の煉獄の永遠の劫火に身を焼かれるの罰
を恐れる。これを心理を裏付けるものにモーリス・パン
ゲ著『自死の日本史』にある。「日本人が西欧的な生
活習慣を見てもっとも驚くのは、ヨーロッパ人が自分の
責任を正面きって認めようとしない態度である」と。内
面の良心は働いていないのだ。日本の民話「鳩の孝
行」はこんな話だ。むかし、鳩はひねくれもので、ちっと
も親のいうことは聞かない子であった。親が山へ行け
といへば田へ行き、田へ行けといえば畠へ出て働いて
いた。親は死ぬ時静かな山へ葬ってもらいたかったけ
れども、反対のことをするだろうと思って、河原へ埋め
てくれと頼んで死んでいった。ところが鳩は親が死んだ
ものだから始めて悪かったと気付き、言い付け通り河
原に墓をこしらえた。しかし、川のふちでは雨が降る度
に墓が流れそうで気掛かりでなりません。雨が降りそう
になると、悲しくなって『ととっぽっぽ 親が恋しい』と鳴く
のです。以上。 こんな話を聞いた子はやさしい子にな
るでしょう。
江戸時代や幕末にはヨーロッパの多くの観察者が日
本の教育や親子関係を賞賛している記事を残している
が、一切無視して取り上げない。
5 日本の道徳律 まこと
ルース女史は手淫は日本人の全然罪悪と感じない享
楽であると書く。われわれは成人する前に、意識の中
に深く刻み付けられる。少年はそんなことをすれば頭
がおかしくなるぞと。西欧人は幼年時代に母から厳重
な監視を受ける。もしその罪を犯せば母親は体罰を加
えることがあったと書く。なんだ、せんずり掻けばバカ
になると云われていたのは舶来思想だったのか。神話
の荒魂のスサノオについてこのような神は高等な倫理
宗教においては排除されている。日本の宗教は善と悪
を分け、徳とは悪と戦うことであることをきわめて明瞭
に否定してきたと書く。日本人は人間性として生まれつ
き善だから、悪い半分の自己と戦う必要はないと主張
するとし「私の母は罪の内に私を身籠りました」と叫ぶ
神学を持たないと書くのである。欧米人が原罪による
贖罪感に敏感だとの罪の文化論を導く前口上なのだろ
う。そして日本の道徳律に“誠”を取り上げる。女史は、
日本人は誠こそ最も肝要な教えであって、さまざまな
道徳的教訓の基礎はこの一語のなかに含まれると主
張すると書いている。その通りだ。子供の訓戒に「嘘つ
きは泥棒の始まり」とよく聞いた。犯罪の端緒が盗みで
その発端は嘘を覚えることにあると考えられていた。ま
た「正直の頭に神宿る」と讃えられ、まこ と・正直・清明
は古来から日本人が最も重要視した徳目だった。この
「まこと」を女史がどのように理解しているかというと。
英語のsincerityにあたるが、日本の誠はその人の心
を支配している愛や憎しみに従って行動することとは
違う。それは自己をさらけだすことから恥であると書く。
英語のsincerityとは素直、さらけだすとの意味がある
のか? それなら正直には近いものがあるが。日本人
が誰かが誠意がないと言う時は単にその人が彼と意
見が一致しないという意味に過ぎないとも書く。これは
日本の誠の意味ではない。女史は日本の政治家達は
米英両国を誠がないといつも非難してきたと書くが、こ
の日本の政治家達は米英を不正直だ、と言ったのだ
ろう。素直、さらけだすは正直とも少し意味が違うから
英語のsincerityと日本の誠は意味がずれているよう
だ。女史は何と思ったのか誠を批評して、独立した徳
ではなく、狂信者の自らの教義に対する熱狂であると
結んでいる。何を血迷ったかルース自身が熱狂してい
る。軍人勅諭に誠実たれとあるのでこれから解釈して
いるようだ。この誠実は真心で務めよと諭しているのだ
が、真心で悪事に励むなどの表現はありえないのだか
ら、真心も徳目なのである。誠の概念は別に難しいも
のではない。正直、清い、である。日本の古来の穢れ
ない、穢キタナくない、から来ているのでしょ う。欺か
ない、偽らない、ことである。真心・真実でもある。中国
が仁を最高の徳目にしているのに日本では仁は価値
が低くヤクザの徳目だと書いている。ヤクザは仁義を
ヤクザ同士の礼儀、掟の意味に使っているので、べつ
に日本で仁の徳格が低いわけではない。日本では和
語で「情け」が仁の意味で常用されている。「なさけ」は
愛す、好む、恵む、であるが、惠むは与える、助ける、
救う、育てる、ことでしょう。中国の仁、欧米のloveよ
り、また情けより日本人は「まこと」を「道徳的教訓の基
礎」と したのはなぜなのだろうか? 愛す、恵む、は善
であり、美とも言えるが、まことは真 (真実)善(欺かな
い)美(清い)を兼ね備えているからか? また、愛・恵
みは不徳を好む、悪徳を愛す。悪人を助ける。と言え
るように不道徳的なものにも係わることができる。即ち
善悪に関係ない側面もある。誠は悪に係わることがで
きないからか?
6 罪と恥
世間体、世評を気にするのは伝統的に合議制の国だ
ったからでしょう。世界がキャンプファイアー民主主義
の時代から去り、身分制が広がる。日本では弥生時代
以降本格的身分制が始まると思うが、弥生時代を写し
たであろう神話では、芦原の中つ国に降臨する神は
「言向和平」(ことむけ やわす)ものだった。高天原で
は八百万の神が相談していた。唯一神が十戒を授け
てこれが善だと決めつけるようなことはなかった。後段
で見るようにヤハベは最も忠実な僕シモベのヨブの申
し立てなど一切聞く耳を持たない「おれが造物主の神
だ、文句あるか。」で済ませてしまう。日本のアマテラス
はそうはできなかったろう。大和朝廷が成立しての十
七条憲法も「一人できめるな。話し合え」だった。日本
では専制君主や独裁者がこれが正義だと一方的には
決められない社会なのである。何が善か何が正義か
は伝統的事例である先例や世間の習いか関係者の話
し合いで決まる。日本では話し合い、皆の意見、世間
の評価が力を持つ。この合議制はよいとこもあるが、
……でもある。でも、世間がうるさいのは日本だけでは
ないのである。イギリス人のミルは『自由論』に社会の
非公式の圧力に抗する個人の個性尊重を説いて、「ヨ
ーロッパ諸国に比べると、英国では世論によるくびきは
おそらくずっと強い、云々」と書いている。それは、デモ
クラシーの到来によって、いっそう強められ激しさをま
す傾向にあった社会的な圧力であるので、世評はデモ
クラシーの一形式なのである。また、アメリカ映画の『イ
ージー・ライダー』は南部の田舎の社会が都会の若者
の生態へ反感を抱いて、弾丸を放った幕切れだった。
いつまでも恥の話が始まらないと気を揉んでいたら、
誠の話から、自重に移り、その後で恥の問題に及ん
だ。その話の展開が曖昧である。まず、自重を「自らを
重んじること」と解釈しているがこれは意味がはずれて
いる。また日本人は人から非難されるようなことをしな
いことだと考えていると書いている。自重とは行動を謹
むこと、自己規制、自己管理と言ってよい。これは軽薄
な行動によるトラブルを避けようとすることだ。そして、
恩恵を施すことはよいことだが恩恵を受ける人が「恩
を着せられた」と思わせるのは用心しなければならな
いと書いている。が、このルース女史の書き方では事
情が理解で きない。それは室町から戦国の中世の時
代の日本人はとても名誉を重んじていた。この時代は
まだ公的民事刑事裁判制度が確立されていない、自
力救済習慣が行き届いていた社会であった。みな自存
自立して生きている。恩を着せる、むやみに他人を助
けることは助けられた方はお前は自立力に欠けている
と思われたに等しいので、恥をかかされたと感じるの
である。皆一人前だとの誇りをもって生きていた時代
だ。現代日本人も同じである。身内からの贈りものは
互恵共同体内で財を贈答しているのに等しい。でも他
人からは易々とは金品をもらう気にはならない。乞食
物乞いではないと自負があるからである。だからここ
の話の展開は恩を施すにも慎重にしないと名誉を傷つ
けることになるという、誠の話題から名誉に関する話に
転じているのである。そしてさらに「世間がうるさいから
自重しなければならない。世間というものがないなら自
重しなくてもよいのだが」と続く。これは何を言っている
かというと、世間体の話が出てきた。世間での評判で
ある。あの家は義理を欠いていると評判になれば付き
合いが悪いと評価されたのである。世評があるから慎
重に振る舞う。ないなら気ままだとの意味である。これ
も名誉を気にしている話である。この後に「日本人は時
によっては自分の罪の深さにピューリタンにも引けを取
らない反応を引き起こすことがある」と書いている。こ
こで罪の話題に転じた。そして「日本人は罪の重大さよ
り恥の重大さに重きを置いているのである」とつづく。
これは日本人が世評を落とさないように自重して、恥を
かかないように気にしている話を、罪業についても恥を
気にしているとの錯覚を起こすような話のつながりにな
っている。これは名誉の話題の中にふいに罪の話題を
混同させて、罪に恥と感じると思わせるような展開にな
っている。これは話題のすり替えの詭弁である。そして
恥を基調とする文化、罪を基調とする文化と二つに分
ける。罪を恥としか感じない人間は日本人しかいない
のなら、それを二大文化圏のように扱って下さったの
は過分な待遇でカタジケナイことであるが(笑)。しかし
欧米を罪の文化日本を恥の文化と規定して、罪の文
化では告白によって罪悪感を軽減できるが、恥の文化
では告白は世間の前に露見するようなことだから、黙
っていれば思い煩う必要はないと、奇妙な論理展開を
したが、それは、恥の文化では露見しなければ患いは
ないのだから、露見しない条件のもとでは犯罪に陥り
やすいと推論させるための企タクラみだっだ。正に悪ら
つな詭弁の展開である。罪悪感とはその人物が属する
社会で慣例として罪と定められている事柄を犯した時
に感じるものであり、恥とは名誉が損なわれた時の感
情である。罪を犯すと相手に対して罪悪感を抱き、禁
(タブー)とされていることを犯した卑怯な不名誉な自
分に対して恥と感じる。名誉が損なわれ恥と感じても
罪悪感を抱くことはない。欧米人の罪悪に対する反応
と日本人の名誉に対する反応を混在並記して日本人
が罪に恥しか感じないと思い込ませようとした。日本人
の名誉への反応と欧米人の罪悪への反応を対称的に
扱うのはルースの策略である。日本人が名誉に敏感な
ことから、しばしば恥の感情を抱くのを利用した。
中世人は自存自立して生きていたと云ったが、一匹狼
では生きていけないので各々グループに加わってい
た。その中で名誉を守っている。例えば、当時の主君
は己の家臣でも名誉をひどく傷つけると謀反の仕返し
を受けた。あの明智光秀が本能寺に夜討ちをかけた
のも私怨からといわれている。わたしはまさか私怨で
はあるまいと思っていたが、中世人の名誉観を知った
今はそれが大きかったのかなと思っています。
7 アメリカと日本の文化の型
また、アメリカに留学した女学生の体験は前に述べた
横井小楠の甥の左平太や夏目漱石の体験とさして変
わらないだろう。左平太は書簡にしたためている「一切
義理を重んじない。却って義をもって愚という」と。名誉
を重んじる日本人は互いの名誉がぶつからないよう
に、交際の礼儀・掟である義理を練り上げてきた。他国では馬鹿馬鹿しいと思えるものだったのかもしれない。
ルース女史等の「われわれアメリカ人には慣れっこに
なっている遠慮なく打ち解けて人と接する態度」を『菊
と刀』風に嫌みッたらしくいうと「ただ我が利益の交わり
をするのみ」で、人間関係をビジネスライクに処理して
いるにすぎないのである。中国の上流女学生が王者
のごとき趣があると述べられているのは儒教王朝文化
のせいだろう。日頃召し使いに架し憑かれている身分
だろうから、富の階層社会ではよくマッチングする。日
本の女学生といえば老子のような謙譲文化だからだ。
アメリカと中国の文化の型は近いと言えよう。アメリカ
はローマ的である。中国の王朝制度と人の気質も合っ
ているようだ。中国の倫理上の要請は日本ではついぞ
受け入れられなかった。と、仁を持ち上げる。まるで中
国政治が日本より人道的だったとでもいいたそうな口
振りである。そして左翼の学者なのだろう、偉大な朝河
貫一と持ち上げて「天皇制と相容れなかった」とのセリ
フを引用している。日本は西洋の最後の手段、革命を
用いなかったとも書いている。イギリスではチャールズ
一世が処刑され、フランス革命、ロシア革命が起った。
フランスを中心に中国文化が伝わったので、中国の易
姓革命思想が影響しているのかもしれない。イギリス
の十七世紀には暴君殺害理論、神の裁可による力に
よる抵抗権論などが現れているのは易姓革命そのも
のだ。西欧と中国とに比べ、王殺しをしなかった日本
は文化の型が違うのである。西欧・中国の革命と日本
の明治維新を比べると、取替え・交換であらたまる文
化と洗い清め・組み直しであらたまる文化と言えよう。
8 無償の愛
日本の小説・演劇・映画はハッピーエンドで終わるもの
は少ないと書いている。戦争映画でもみすぼらしい戦
場場面ばかりで勝利感もないが、反戦思想を抱くよう
にはならないから政府に気にされていないと書いてい
る。?…、おしゃべりルース、調子にのり過ぎてへまを
やったな。欧米のハッピーエンド映画はこんな構成だっ
たのか。「アメリカの一般大衆は解決を熱望する。劇中
の人物がいつまでも幸福に暮らすようになると信じた
がる。劇中の人物がその徳行の報いを受けることを知
りたがる」。そうか!ハッピーエンドとは徳行の報いだ
ったのか。ルースは『菊と刀』の嘘を長々と書き過ぎ
て、頭が惚けてたのか、口を滑らせてしまった。それな
ら無償の愛ではなく対価を求めているのではないか。
日本の映画はこんな風にできている。~~夫の役者と
しての天分を磨かせるために一身を捧げた妻が、いよ
いよ夫の成功を前にして大都会の中に身を引いて妻
の身分を隠す。そして夫の大成功の当日に貧困のな
かに一言も不平を漏らさずに死んでいく。~~ 日本
映画の妻は夫のために奉仕の報いを受けることを拒
む。日本人は恩を尽くし報恩を求めないで、捧げ尽くす
その純な心に打たれて涙する。アメリカ人はこれでは
満足しないのである。ルースはアメリカ人は無償の愛
で、恩と報恩の贈答でもなく、債務契約でもないと自賛
していた。今ここではアメリカ人には徳行(恵み)の反
対給付が必要だといっている。それじゃ、アメリカ人の
人間関係は契約ではないか。そうだアメリカ人は神とも
契約を結んでいる。それは信仰も神の反対給付を求め
るからだ。一例に『ヨブ記』にもそれが現れる。『ヨブ記』
ではヤハベ神と悪魔が賭けをする。悪魔が語りかけ
た。神よ、人の信仰はあなたが恵みを与えられている
からです。恵みを取り去ればあなた様の柔順な僕、義
人ヨブも信仰を捨てるでしょう、と。ヤハベは賭けをさ
れ、ヨブから家畜、財宝、兄弟同胞をすべて奪われ、ヨ
ブには腫れ物の病を与えられた。困窮・疫病に陥れら
れた義人ヨブは友人にも隠れた罪の在り処を責められ
るが、独り立ち上がり神に問いかけて無罪を申し立て
る。苦難を訴えかける。ヤハベはつむじ風のなかでヨ
ブの前に姿を表わし、全能の創造者として振るまう。神
のまえにヨブは圧倒されて「御覧下さい、私はつまらな
いものです。何といってあなたにお答えできましょう。
わが手をわが口にあてがうばかりです。一度申しまし
たが二度とは申しません。これ以上は続けません」と。
ヤハベはヨブの降伏を無視しさらに畳み掛けて問う
「君はわたしの公義を否定し、自分を義とするために、
わたしを非とするのか」。ヨブは神の力をまじかに見
て、全能者に信服し、神の意志を受け入れて恭順し
「塵灰 になって滅びましょう」という。さらに「わたしは
分かりました。あなたは何事もおできになり、あなたの
どんな決意もはばまれることはありません。あなたは
云われた『知りもしないのに、私の計画を覆い隠すも
のは誰か。』まことにわたしは分かってもいないことを
いい、あまりにも不思議で、分かりもしなかったことに
ついて申しました。…わたしはあなたについて噂では
聞いていましたが、今わたしの目があなたを見ました。
それゆえに、へりくだり、灰塵の中で悔い改めます。」
と。日本人が『ヨブ記』を書けばここで終わる。神への
信仰を取り戻し、そのまま死んでいく。ところがアメリカ
人が書いたのか『ヨブ記』は違う。この時、運命は反転
しヨブへの災いは消え 恩寵が降り注ぐ。ヤハベはヨブ
のすべての所有物を二倍に増やし、七人の息子と三
人の娘を与えた。ヨブの娘ほど美しいものはいなかっ
た。ヨブは百四十年を生き、孫を四代に渡るまで見届
け、日々満ち足りて年老いて死んだ、となる。ヨブの信
仰契約は財産も寿命も二倍返しの報いを得たのであ
る。
蟹は自らの甲羅に合わせて穴を掘るという。ルースは
日本を貶めようと嘘を書いていたが、創作のつもりが
自画像を写していた。彼女の魂は「我が利益の交わり
をするのみ」で、損得勘定が人間関係の唯一のものに
なった。そんな社会では名誉のための義理などは無用
な愚にしか見えない。ルースよ、汝の魂を写したのなら
『菊と刀』では不都合だ。私が名付けてあげよう。『サボ
テンとライフル』ではイカンか。
9 日本的なるもの
日本の“皆の意見”即ち合議制は、太古のキャンプファ
イアー民主主義が生き残っているからのように見える。
(近世まで農村には“結い”の共同体があった。)恩、義
理などの人間関係も太古の互恵共同体の濃密な人間
関係から来ているのでしょう。アメリカのフランク(率
直)な態度はビジネスライクなもので契約社会が生み
出したと推測できる。アメリカは移民の国ですからもと
もとは赤の他人の集まりで社会をつくると、共同体と他
の共同体の物々交換の原理である取り引き契約が人
間関係のもとになったのは当然だったかもしれない。
でも、すでにヨーロッパでも契約関係が主になっている
のを欧州民話「カエルの王様」「赤頭巾ちゃん」等々で
確認できる【追記】。欧州の国の中では宮廷で話されて
いた言葉と民衆の言葉が異なっていた時代がある。征
服王朝の国では社会の上層部と下層部は異なる共同
体の取り引き関係になるのであろうから政治も契約的
支配になるだろう。それは大衆社会関係にも波及し
た。日本は大和朝廷形成期を写していると思われる神
話『日本書紀』には降臨は「言向和平」(ことむけ やわ
す)すものだった。言葉は通じているようだ。武力一辺
倒の征服ではなく“話し合い”も伴っていた。大和の征
服者ヤマトタケルは造鉄技術をもたらした帰化人と在
来王家との混血の末裔で、鉄剣(草薙の剣)を振う者
だった。弥生人は縄文人と共生した遺跡がある。山口
県土井ケ浜遺跡の弥生時代前期末の人骨の二百体
は明らかに縄文人とは異なる特徴をもつ顔をした人骨
であった。一方、西北九州や南九州の弥生遺跡から出
土する人骨は、縄文人とよく似ていた。また、土井ケ浜
遺跡でも、縄文人の子孫の顔つきの人骨と渡来系の
人骨が一緒に埋葬された墓もあった。この発掘結果を
考えると、大陸や半島からの渡来人が縄文人と同居
し、次第に混血し弥生人となっていったのではないか。
日本では新来の征服者が先住民を武力支配して建国
したのではなく。新来の人・文化を取入れた部族の王
が支配を広げて国をなした。混血民族の共同体が拡
大して領域国家になったので、日本は互恵共同体の
慣習を他国と比べてより多く継承した国になった。これ
は日本的なるものである。しかし、現代社会の高度に
複雑化した社会で、太古の単一的な社会に習うことは
できない。平等を押し進めた共産主義は奇怪な権力を
生み出した。人間関係も契約を基本としなければ互恵
では成り立たない。ただ互恵・恩愛には母親の恵みの
ような無償性の要素がある。恵みの反対給付を放念す
る精神は高次の人間関係の形式である。それがなくな
れば、教授は公給を受け取っているのであり、奨学金
は完済したから、契約は終わっていると母校に寄付す
る人はいなくなるだろう。非ハッピーエンドの映画に涙
する人もいなくなるだろう。特攻機が晴天に飛び立つこ
ともなかったでしょう。
10 おわりに
『菊と刀』で見るべき主要な話はこれだけか。誠の話題
から罪と恥の話題に進んだことはこの書のなかのふた
つの魂を比べるのに好都合だった。罪と恥の話では犯
罪と名誉のすり替えの詭弁で日本の魂を貶める、そん
な詭弁を弄する魂が不誠なのである。『菊と刀』にはこ
んなことも書いてある。革命を起こしたことがない日本
の国が方針を一変して西洋諸国の本領とする分野(軍
事力のことを指しているのだろう)に競争するようにな
ろうとは全く思いもよらぬことであった。日本の遅れ
た、そして階層制度に押しひしがれていた民衆は急展
開してあたらしい進路に切り替えた。また、まだ戦闘力
が破砕されていないのに降伏を受諾するという法外な
代価を自らに要求する能力を用いたのである、と。そう
だ。予想もできなかったことに明治維新は進展し、国際
連盟の常任理事国に上り詰めた。尊大にもアメリカの
カースト制国際階層支配を脅かす有色諸国民の平等
条約の提案までした。対日戦争を仕掛けたが戦は長
引き特攻の洗礼をあびた。年少期の躾でトラウマにな
っている神の劫火よろしく焼夷弾と核で焼き殺し、民族
浄化でアメリカインディアン並の少数民族にしようとし
たが、またぞろ意外に詔のひとつで日本は矛を納め、
生き延びらせてしまった。この宇宙でこの東洋で遭遇
した魂は滅ぼされねばならない。そのためにこの支離
滅裂な本を書いた。日本の美点の評価は一行もない。
それだけ憎しみが激しいのだろう。また恐怖している
のだ。日本を辱めようとした論理の剣ツルギは刃こぼ
れして菊柄は切断できなかった。無惨な文献の死骸を
さらしているが、左翼が自虐史観の助けにしようと祭り
上げている。ルースよ、教えてあげよう。な ぜ陰謀渦
巻く政治動乱で明治維新は成し遂げられたかを。誠の
魂が最後に人々を結び付けるからである。なぜ特攻機
は晴天に飛び立ったかを。穢れのない魂が報いを求
めないからである。なぜ詔ひとつで戦いが已んだか
を。皇祖皇宗の大御心が真実であるのを知っているか
らである。所詮、邪悪な魂には不可知であろうが。
注
「カースト制国際階層支配」「アメリカインディアン並の
少数民族にしようとした」は過激な表現と非難されそう
だが、そうではない。進化論も援用して肌の色(=生ま
れた種族)に人類を優劣付け、植民地産業経済で職も
規定したのはカーストそのものだ。また、「日本人は四
つの島に閉じ込め、行く行く滅ぼしてしまう」と公言され
ていた。欧米には選民思想・民族浄化思想が厳存した
のである。
余話
ルース女史の伝記物語が出ているそうだ。女史は同じ
文化人類学者のマーガレッド・ミードと同性愛感情をも
っていて、不安定な心理に悩んでいたそうだ。学会の
閉鎖性と男性研究者の偏見中傷に苦しんでいた。自ら
を「逸脱者」と自覚していたのだから、実情は理想的に
描いたアメリカ社会に溶け込めないでいた。社交もうま
くいっていないのだ。そんな人物が義理に付いて論じ
るのだから悪印象しか持たない。何だかね~。こんな
人物が『菊と刀』を書いたとは。日本の性文化の奔放
性に触れているが、キリスト教の「性の罪悪感」文化の
なかで「アメリカ人の良心がいかに罪の意識に悩んで
いるか云々」とは自身のことか。アメリカでも男中心の
習慣はヨーロッパの旧世界から絶縁されていない。独
立宣言の精神から程遠い「社会的制約と闘っていた」
のだそうだ。所詮プロパガンダで学術論文ではない
が、そのアメリカを平等自由の国と言い張るのは、日
本を落としめるためとはいえ、人間社会が理想的理論
通りにいかないのはよくあることで顧みて葛藤がありそ
うなものを。
結局、ルースの自由平等思想はピューリタンの信条か
ら来ているのだ。彼女が目の敵にした「各人が自分に
ふさわしい位置を占める」とはピューリタン革命以前の
ヨーロッパの神を頂点とする有機体階層社会の観念で
ある。カトリックの教理は霊的なるもの教皇権が世俗
的なるもの王権より上位の階層的秩序で、教会、国
王、封建領主、主人、父、等々の権威への服従に民衆
を位置付けるものだった。固定した階層身分分際を超
えることは貪欲と非難される。しかし、ピューリタン信仰
では神と個人が直結して各自平等な人間になる。対等
となった個人は既存の階層秩序の共同体から離れて
自由になる。自由になって新たな契約で、個人主義的
社会関係を結ぶ。それが17世紀西欧の社会契約思想
である。日本では互恵共同体の人間関係である恩や
義理が残っていた。それが、天皇の詔の権威、特攻精
神、非ハッピーエンドの物語に出現する。個人主義化
し契約社会になった魂と対称をなしている日本の魂が
遭遇したのである。それをルースは自分達の中世の宗
教的階級共同体秩序“ふさわしい地位”の説教として、
故意でなければあるいは誤認した。“各々その所を得
る”には階級的ふさわしい位置の意味はないのである
が、自己の歴史を投影してしまったのである。ルース
は親にあやまった躾をされて根性がひん曲がった人間
になってしまった。哀れな人間と言えよう。それでも日
本を貶める“業績”を残したのだから、同情してはいら
れないのだ。
「誠」は欧米語では「良心」が適訳ではないだろうか。
「よこしまでない心」で共通していると思われる。「内面
の良心の自由」と常用されるが、これは「内面の信念
が妨げられないこと」だろうから、「内心の誠」といえば
も「内面の真実」である。ただし、誠に比べ優越感が感
じられる。「内面の良心の自由」は私の良心は妨げら
れないというのだから、妨げる相手は悪心と見られる。
日本では国歌を歌わないことが「内面の良心の自由」
と主張されている。歌うものは良心に欠けていると見な
されている。
、【追記】
恩と契約の民話
カエルの王様(グリム童話)
森の中でお姫様は井戸に腰掛けてボール遊びをして
います。するとボールが手からこぼれて井戸の中に落
ちてしまいました。お姫様が泣いているとカエルが出て
きて言います。拾ってきてあげましょう。そしたら友達に
なってくれますか。一緒の小皿で食事をしてくれます
か。すてきな ベッドで一緒に寝てくれますか。お姫様が
約束するとカエルはボールを持ってきました。しかし、
お姫様は約束をすっかり忘れてしまってお城に返って
しまいます。カエルがお姫様は嘘つきと鳴いていると、
王様がそれを聞いてお姫様に約束を守るように言いま
す。お姫様はいやいやながら約束通りにしますと、カエ
ルは王子様に変わりましたので、二人はめでたく結婚
しました。
これは契約の民話である。カエルは人間世界の異類で
あるので、よそ者、外来者をあらわしていると解釈され
ている。浦島太郎のカメも鶴の恩返しの鶴もおなじであ
る。お姫様がこまっているとカエルが助ける・恵みを施
す話であるが、カエルは条件を出している。反対給付
を求めるのであるから契約が生じる。ところがお姫様
は契約を履行しなかった。父の王様に諭されて約束を
果たすと更なる幸福が手に入る。浦島太郎や鶴の恩
返しでは人間が異類・外来者を助けるのである。が、
その時点で約束は結んでいない。無契約で一方的に
恵みを施すのであるから恩愛をかけたのである。それ
に応えてカメと鶴は恩返しをする。ところが今度 は乙
姫様は玉手箱を開けないように、鶴は機織りの時姿を
見ないようにと条件をつけている。外来者は契約を結
んだのだ。人間が契約をやぶって玉手箱を開け、姿をのぞいた時に給付制限条項に抵触し契約は終了、恩
返しは終わる。日本の民話では共同体内の人間は外
来者に共同体内の恵み・恩愛をかけ、外来者は共同
体外の恵み・契約で応じたことになる。(浦島太郎の変
形話では玉手箱から宝物が出てくる話になっているも
のがある。これは恩に報恩で応じた型になる。)
ルースは日本は革命が起こらないと貶しているがヨー
ロッパ・中国も王と臣民は契約関係でとらえられている
ようだ。王は臣民を守る義務がある。そんな王は王た
る位を得る。暴君や戦争に負けた王は王たる義務を果
たせないので革命で取り替える、また廃止するのであ
る。ヨーロッパ・中国では征服王朝なので異なる共同体
の間の関係である契約支配になるのだろう。しかし、日
本では天皇は歴代王たり得たのはなぜか。大東亜戦
争では負けたが戦後の天皇の御幸は民に迎えられた
のは契約関係でないと推測される。日本の皇室は例
外的に百済の妃を迎えることがあったが列島内の豪
族貴族と婚姻を重ねてきた。ヨーロッパでは王国間の
王族同士で婚姻する。臣民とは出自が異なることから
支配権がうまれるのである。人類は同胞ハラカラは対
等との観念をもっているので、対等の人間同士では支
配権は成り立たない。それを考えると天皇は微妙な立
場に立っている。婚姻で臣民と近づきすぎても権威を
失う。遠すぎると契約関係になる。それだから現在の
皇室には戦前のような数の宮家が必要になるのだ。皇
室が契約支配でないとすると親権支配と観念されてき
た。皇室は日本民族の神代に及ぶ旧き尊い本家と観
念されて親権で成り立ってきたのでしょう。少々問題が
ある親でも親は親でやすやすとは縁を切れない。親の
子に対する保護は恩愛で、ア・プリオリなもので、契約
を結んで成り立っているものではないところに皇室の
永遠性がうまれている。
菊と刀 おわり