2009年11月 2日 (月)

30年目の恋

☆★☆★☆★ 1 クリスマスの夜 ☆★☆★☆★☆★

古風な50男の悠平ユウヘイはクリスマスの夜は今風

には家に帰らず、バーでの酒盛りを恒例としていた。ま

あ、そうするしか仕方なかった。離婚して10年になる。

Image161_3 バーテンダーとおしゃべりしていたが酔いがまわって

話が途切れてからは、肘ヒジまくらで物思いにふけっ

た。2メートルほどのツリーのイルミネーションの光の

綾に、子供が幼かりしころの聖夜の記憶が甦る。「クリ

スマスツリーを飾った、豪華な部屋の前で、走りを止め

てしまった子供のように…」、詩人リルケの描写のよう

な情景が浮かんでは消えていく。カウンターにぽっんと

置かれたドライマティーニは早くから飲み干されカクテ

ルグラスにはオリーブだけが残っていた。このカクテル

は映画007シリーズのジェームズボンドの好みと知っ

て悠平の飲み物となったものだった。終電の時刻にな

ったので、やおら立ち上がり、帰宅の段取りとなる。持

ち物と云えばトレンチコートと売り子に無理矢理買わさ

れたケーキだけである。コートはバーバリーではなかっ

たが物知りの人物がバーバリーに違いないと言い張る

立派なもので、街中でコートを着て歩くと物売りが寄っ

てくる金持ちらしく見える代物らしい。声満ちるバーを

出てコートをはおり、ケーキの包みをぶら下げながら、

ふらふらと、地下鉄の入り口のホールにたどり着く。空

を見上げると、凍てついた夜空に青白い星が冷たい光

を灯していた。悠平は階段をおぼつかない足取りで一

歩二歩と下りはじめた。瞬間、重心が後ろにずれ、あ

わてて階段の取っ手をつかもうとしたが果たせず、足

がすべり体はもんどりうって転がりはじめ、どこかで頭

を打ったのか意識は突然途切れた。

ハッと、目が覚めると悠平は階段の下の廊下に仰向け

になって横になっていた。肩のあたりと後頭部がやけ

に痛い。「大丈夫!」との呼び声を聞いた。もう一つの

声が「医務室の先生を呼んでこなければ」と叫んだ。悠

平はまた意識が遠のいていって、次に目覚めた時は

ベットの上に寝かされていた。

,

※※※※ 2 世はすべて事もなし ※※※※

悠平は妙に爽快に目覚めることができた。今の事態は

階段から落ちたあとなのだとの理解はしている。頭を

上げて部屋の中を見渡してみた。大きな体重計が置か

れ身長を計る道具もある。近くの机の上には食べ合わ

せのメニュー表が張ってある。悠平は歯に舌を当て

た。そして驚いた。歯がすべすべしているのだ。それは悠平

の右下の犬歯の先きの奥歯は半年前から虫歯治療の

詰め物が外れて凹みになっていたが、痛くもない

し面倒なので医者に行かずほおっていた。それからは

その凹みに舌をあてがうことが半ば癖になっている。

今、舌を当てても凹みを感じないのである。不審に思っ

た悠平は部屋には大きな鏡が掛けてあったので歯の

様子を見ようとベットから起き上がり、そして鏡の前に

立った。悠平は今度は驚嘆した。…、そこには昔の写

真の自分の顔が映っている。二十歳まえの悠平の顔がそこに

ある。「なんだこれわ!」「どうなってんだ?」と両手を

顔にあてがった。そして、両腕、胸、下半身をまじまじと

見た。しばらく茫然としていた悠平は窓に足早に歩い

ていって外をのぞくと、大きな広場に球児達が白球を

追っている。広場の脇の建物に目を移すと建物の上に

「第一城南高等学校」と大きな文字が夕日に照らされ

ている。第一城南高等学校とは悠平が通っていた高校

だった。…、悠平は分けが分からなくなり、またベットに

潜り込んだ。幾ばくかしてドアが開いて、ブラウスを着

た女が入って来たので悠平は起き上がる。「気が付い

たみたいね、悠平君。体、どこか痛いところある。」と女

が聞く。悠平は「痛くはないが…いえ、痛くありません

が、でも頭がふらふらします。」と答えた。頭自体はもう

はっきりしているのだが他の意味で混乱しているので、

このように答えた。女が「お母さんが見えましたよ。」と

云うと、後ろから女がつづいて入ってきた。悠平は口を

半ば開け唖然として女の顔を見上げていた。こうして、

若き日の母に再会する。母は大事をとってタクシーを

呼んだ。帰宅した悠平は和室に布団をひいて寝かされ

る。しばらくして小学5年生の弟が帰ってきて「兄ちゃ

ん、学校でこけたと。明日、学校休むと。」と云って出て

いった。また父が帰ってきて「おまえはあわてもんやか

らなー。気をつけろよ。…、頭大丈夫か。」と云って出て

いく。こうして新しい世界、いや昔の世界に入りこんだ

悠平だが30年の時の隔たりは不思議と感じられず、

すんなりと溶け込んでいけるのが驚きである。洗濯済

みのシーツと厚手の布団に包まれていると、ひさしぶり

に人心地がして生き返る思いだった。悠平は新しい境

遇に満ち足りて、そのまま深い眠りの淵に落ちていく。

????? 3『忍ぶれど色にいでける吾が恋

は…』 ?????

障子が陽光を灯し朝を告げている。「起きてる?今日

学校はどうするね。朝御飯はできてるからね。」その声

に悠平は目覚め「うん、行く。」と答えた。新しくなった

世界は悠平を元気付かせ好奇心をかき立てる。期待

に胸膨らんで、布団をはね除けて起き上がるとお腹の

下が元気だ。 教室に入ると皆が声を掛けてくる。自分

の席はすぐに分かった。悠平は かの女のまえの席に

着く。かの女こと、安藤陽子は悠平が密かに思いを掛

けている子である。陽子はうりざね顔で体もほっそりと

している。背も高からず低からずだが悠平には美人に

見えた。静かに話すタイプでこれも悠平には上品に感

じられた。小学校でも同級生になった幼馴染みとも云

ってよい間柄で、かの女の家も知っている。夢の中で

は恐ろしくリアルな映像を見ることがあるが、悠平も陽

子が目の前にいるような夢を見ている。席に着く前に

チラッと かの女の顔を見ると夢のままの陽子だった。

悠平は考えた。今度は思いを尽くしてみたいと…。か

の女は新聞部でクラブ活動をしていたので悠平も新聞

部に入ることにした。一時限の授業が終わるとさっそく

入部手続を済ませる。つぎの二時間目が終わると隣の

組みから一学年の時友達になった俊一シュンイチがや

ってきた。俊一はテストで間違った答案を教師が採点ミ

スで丸を付けたものを不正解ですと自主申告する正義

漢である。悠平などは正解が分かっていても書き間違

えてバツになることもあるのだから、お相子であると丸

を有り難く受け取るタイプであるが、そんな俊一を尊敬

してもいる。俊一が悠平をじろじろと見て「階段でずっこ

けたのか。誰かさんの事を考えて、上の空で歩いてい

たのと違うとか。」と云うと、「パンツをのぞいてたんや

ろ。」とやじが入った。すると後ろで「くすくす」と陽子が

笑ったので、悠平は後ろを向いて「そんなこと、しとら

ん。」と口を尖らせた。すかさず女子が「あやしかー」と

声を上げたので、慌てて耳が赤くなった。悠平は話しを

そらすために今日新聞部に入部したと告げる。

||||| 4段取り |||||

悠平は始めて部活に参加した。国語の先生の自作句

が陳腐だと教室で面と向かって言い放った、恐れを知

らぬ者、驚嘆すべきと云うべき、そんな秀才(あだ名)

が編集長である。友人の俊一も部員である。秀才が新

入りの悠平を試してきた。「『おちる』の振り仮名はどう

つける。」悠平は「『落ちる』」と答えた。「さすがだね。

『落る』と誤りやすいんだ。」と秀才は笑った。今日の議

題は新聞の文面を一新したいというものだった。まず

新聞名が「城南二年生新聞」では堅すぎるので新たな

新聞名を出してくれとの秀才の提案である。悠平もい

ろいろ考えて紙切れに一案書いて差し出す。秀才は集

まった新聞名を読み上げて部員の間で評価させたが、

自らは「そよ風」を取り上げた。そして、風評とも云うよ

うに噂・ニュースは風が運ぶものとの観念がある。そよ

風なら良いニュースのニュアンスがあると理屈をこね

て。「そよ風」にしようじゃないかと強力に押したので、

皆な賛成することになった。新聞名としては変わった名

だから通らないと思っていたが悠平の案である。陽子

は学科は国語が得意なので「ブンブン{文文}投書箱」

と題した新コーナーを受け持った。詩でも散文でも読

者の投書を善し悪しは問わず受け付けて発表し、評論

を加えて添削もするという企画である。秀才は「陽子さ

んにうってつけだね。囲み記事にしてまん中に顔写真

を張ると見栄えがするね」というと。陽子は「読者に勝

手が分かるように第一回の記事は誰か部員の方が投

書してくれませんか」と頼んだ。それに、悠平が手を上

げた。

。、。、。、。 5文に寄せて 。、。、。、。

新装なった「そよ風」新聞が配られ、ブンブン投書箱も

掲載された。

『ブンブン投書箱・第一回』

読者の皆さんこんにちは。ブンブン投書箱が始まり

た。皆さんの詩・作文を発表してみませんか。わたし安

藤陽子がお手伝いさせていただきます。どしどし投書

して二学年生活の賛歌としましょう!

では、今回は“さなぎ”さんの『君を愛す』が投書されて

います。高校生必須文献のラブレターですね。『君を愛

す』を御覧ください。

Image160 「あなたがいるから星々しは輝くのです。あなたの姿を照らしたいから。

あなたがいるから暖かい太陽は昇るのです。

夜の冷気にあなたの布団のなかで暖められたから。

あなたがいるから花々は咲き誇るのです。あなたと美を競おうとして。

わたしの目もあなたの姿の虜となり、夜も眠れません。

驚きで目は見開いたまま興奮が絶えないのです。

あなたを見ない日もまた眠れません。わたしの心を恐れに導くから。

わたしのそばにいて微笑み語りかけて下さい。

あなたの微笑みにバラのつぼみも開き、

あなたの声の響きはカナリアのさえずりをさそう。

孤独にうちひしがれているわたしを楽園に誘って下さい。

『白菊の まろき光に 包まれて』 白菊こそあなたです。

ああ、君を愛す。」

陽子評「『興奮が絶えないのです』は興奮が冷めない

のです、がよいでしょう。『心を恐れに導くから』は恐れ

に陥れるから、と直しましょう。はっきり云って軽薄・陳

腐です。皆さん、安心しましたね。こんな文章もありま

すから何も恥ずかしいことはありません。次回ブンブン

投書箱へどしどし投書して下さい。」

部室に俊一と秀才と陽子が詰めて、そよ風新聞の評価を

していた。俊一がブンブン投書箱を読みながら「さなぎ

の“君”は誰さんのことかいな」と云った。秀才が「人の

恋路をじゃまするなだ。」と云うと俊一は「布団のなかで

暖められたからだって…。ああ、聞かぬが花か。」また

俊一が「陽子ちゃんの、もう恥ずかしいことはないと投

稿を即すのはおかしかな。ひょっとすると、悠平の深謀

遠慮で助けたのかもしれんよ。」と云うと、陽子は「何を

バカなこといってるの。」と席を断って部室から出て行

った。 秀才「ほら、怒られた。」秀才「ところで、俊一

よ。数学で虚数はない数なのにあるように計算に取り

入れるのは数学もいい加減だな。」と問いかけた。俊

一「そもそも負の数×負の数の値を正の数だけと決め

つけるのが間違いではないのか。負の数も認めれば

虚数と云わなくてもよかよ。」云々と数学談義をはじめ

た。

, ♂♂♂♂♂ 6 恋の手ほどImage159き ♀♀♀♀♀

陽子「悠平さん、もっと真面目に投書して。」

悠平「真面目にしとうやん。」

陽子「何が、布団のなかで暖められたからだよ。いやらしか」

悠平「そんなんじゃない。」

陽子「じゃあ、どんなんよ。」

悠平「そんなんよ。」

陽子「もう…、何云ってんの。」

悠平「……。」

陽子「一体、人を好きになることをどう思ってるの。星よ花よと

云ってて済むことじゃないのよ。そんなんじゃ、相手に好きな

所が伝わらないでしょ。」

悠平「えらい、真剣。」

陽子「冗談で済まされることじゃないと云ったでしょ。誠意が大

切なの。人間性が信頼できないと本当に好きになれない。自

分のタイプだからとそれだけで相手を選んではいけないの。タ

イプなんて、人の雰囲気みたいなものでしょ。顔、身なり、話し

方、立ち振るまい、が与えるもので、人物の色合いみたいな

ものでしょ。女の人で云えば、華やかとか、清楚とか、知的と

か、良妻賢母型で慎ましいようなこと。男の人で云えば、度胸があ

り粋で強そうな人とか、やさしいとか、紳士風で上品そうとか、

明るい、と云うようなこと。結婚相手はタイプでない人でも、人

間性に信頼できれば生活していればその人に親しんで好きになってゆくものなの。昔は、

親の勧めに従って会ったこともない人と結婚して、けっこうう

まくいってて離婚も少なかったのは今みたいに恋愛で

タイプだけで選んでなかったからと、母さんに聞いたわ。」

悠平「じゃ、どんなタイプが好きなんだよ。」

陽子「あたし?あたしは信頼できる人よ。…、何言わせるの。

あたしのことは関係ないでしょ。」

悠平は「わかった」といった。

,

        ♪♪♪♪♪ 7 告白 ♪♪♪♪♪

      『ブンブン投書箱・第二回』

……。以上、詩二遍、随筆一遍を紹介いしました。そ

れと、あと一文投稿されています。前回投稿された『君

を愛す』のリベンジ版のようです。『君を愛す2』を御覧

ください。

「ほうき雲に掃き清められた あの日曜日、ぼくは街に

出て喫茶店でやすんでいました。その店にあなたも入

ってきたのでしたね。ぼくに気付いて驚いた様子でした

がぼくもおどろきました。その時、店は満席になってい

たのであなたは、しょうがなく座っていいと尋ねてきまし

た。こうして二人は肩を並べて座る羽目になった。ぼく

はもどかしく仕方なくて、あなたがテーブルに置いた小

冊子を見て、本の買い物に来たのかと聞きました。本

はリルケ詩集でしたね。たまたま開いたページにはこ

のような詩がありました。

『孤独』
孤独は雨水のようだ。海から夕べを待って昇る。遠くへ

だたった平野からも、孤独は空へ昇る。曇り空はいつ

も孤独を抱えていて、いつか都会の上へ落ちてくる。昼

夜をおかず雨が降り、すべての街が雨水に流される

時。何も見いださなかった体と体とが、失望して静かに

離れる時。互いに嫌う者が一つ床に一緒に寝なけれ

ばならなかった時。孤独は激しく雨打つ川の奔流とな

って都会を流れていく。

これを見てあなたは云った。この二人も愛しあって結婚

したはずなのに、こんな冷たい悲しみに被われて孤独

に生きていかなければならない。こんな救いようのない

ことがあっていいものでしょうか。どのように人を好きに

なればこんなことにならないでいられるのでしょうと。ぼ

くは応じた。「犬を飼っているけど、はなついてくれて信

頼感を共感できるんだ。躾もできて、無駄吠えなども少

なく、迷惑・災難をもたらさないので、可愛いと思うこと

ができる。ぼくにも牙をむき出し、災難をともなう犬なら

好きにはならなかったかもしれんけど、愛らしいのは1

0年間も変わらない。」そして、あなたは云った「犬の二

つの愛される理由は人間にも必要なのね。暴力を振る

う夫、浮気を折り返す夫、冷酷な吝嗇家では災難に遭

ったみたいで好きになれないでしょ。そして犬はかわい

らしいしぐさでなついてくれば喜ばれて多くは求められ

ないでしょうけど、人は長い人生のなかでいろんなこと

が起こるから犬のように単純にはいかないかもしれな

い。あたしたちの人生にはどんな経験が待ち構えてい

るのでしょう。かっての恋人が反目し合うのはどんなこ

とからなのでしょう。」女性のあなたには重大な話題だ

ったのですね。二人の間に共感が生まれていたと、す

くなくともぼくは感じられました。それで、二人は店を出

てからもしばらく一緒に歩きましたね。木漏れ日がさす

ケヤキの道であなたを連れているとぼくの心に満ち足

りるものが溢れていました。それは思春期の感傷なの

でしょうか、なぜ好きなのか説明しようもありません。秋

の日に『白菊の まろき光に 包まれて』いるよな一時で

した。あの時からあなたをいつも愛イトおしんでいま

す。」

陽子評「少しは良くなりましたね。最終評価はしばらく

後にします。」

『ブンブン投書箱・第三回』

さなぎさんの『白菊の まろき光に 包まれて』の歌に“ひ

かり”さんが返歌を寄せられました。

蝶舞うや 蜜を盗みて 旅立ちぬ

評 花に舞い寄る蝶は蜜を吸い尽くすと去って行くかも

しれない。誠意は疑わしさが残ると詠われているようで

す。

『ブンブン投書箱・第四回』

さなぎさんからの投稿です。

ひかりさんへ
今さなぎ 一輪の花 深き夢

評 今はさなぎの身で眠っていても、夢の中に出てくる

のはいつもいつも一輪の花のみです。今すぐにでも蝶

に化身して一輪の花のもとへ飛んで行くことだけを夢

見ていると、さなぎさんの心の揺るぎなさが詠われてい

るようです。

,

∞∞∞∞∞ 8 回生 ∞∞∞∞∞

悠平も後ノチに結婚した。好きになって、したものだっ

た。相手も同じだっただろう。悠平は車も青年期から好

きだったがその感情はいつまでも続いていた。好きな

ものは生活の中にいつまでも共にあるだろう。それな

のに悠平は結婚相手と別れた。親子の間でも愛憎が

生まれることがある。それは期待・要求のかけ過ぎか

ら起こるのだろうか。夫婦の間でも憎しみが生まれる。

行き違いが重なるからだろうか。悠平も要求し期待し

すぎたのか。それが不満となったのか。犬や車への好

みは失われないのに人への愛情は続かなかったこと

の真因は悠平にもわからなかった。リルケの詩の夫婦

のようにーー失望してーー静かに離れていったのであ

る。世の中にはおしどり夫婦は本当にいるという。遺伝

子次元で引き合う男女があるのだそうだ。そんな夫婦

がいるのだそうだ。悠平夫婦はそうではなかったよう

で、不満がたまると好き嫌いの感情を反転させるのだ

ろうか。

思春期にもどって、恋の感情を50才の心の悠平が甦

らせていた。ふと…、気付くと悠平は山の上までつづく

長い石の階段の前に立っていた。悠平が階段を登ろう

とすると上から白い光の玉が跳ねながら落ちてきて、

進路をさまたげる。光はいよいよ大きくなり悠平は光の

中に包まれていった。

目にまぶしいものを感じて悠平はゆっくりと眼を開い

た。天井のランプが煌々と光っている。側で悠平を見

つめている顔があった。別れた妻の顔が不安げに見つ

めている。「気が付きました。…、三日間眠り続けてら

したのよ。事故の直後、危なかったので私も呼ばれま

した」。悠平の後頭部の打撃は深刻な物であった。悠平は身

直に久しい かの女の声を聞いた。たどたどし

い口調ながら感謝の念を込めて云う「あ・り・が・と・う・よ・う・

こ」。そして考えた、陽子に会えたから人を信頼することを知っ

たのだ。来世は添い遂げてみたいと。次の瞬間すべての感覚

が途切れた。悠平はそれを意識することもなかった。

おわり

愛犬物語

わが家のアナログ犬チャンスとカミの話です。

チャンスとは運命の出会いで飼い始めましたが悲しい

物語ですから留めておきましょう。 Image7_3 直尾・立ち耳のチャ

ンスの子がImage8 巻尾・垂れ耳のカミでカミの出生の物語は

こうです。月もないあの夜、チャンスはひそかに庭の垣

根を乗り越えていました。その日までそんなことはなか

ったことですから、発情期を向かえていた野性の雄叫

び(雌叫び)のパワーだったのでしょうか。逃げられた

ことに気付いて、気をもんで待っていると夜半にとこと

こと戻ってきました。何事もなかったようなケロットとし

た顔をしています。いぶかって後ろを見てみると何や

ら異形を呈していました。それから困ったことに、また

めでたくも3月後にサンショウ魚のような小さな固まりが

4つ出てきて、オッパイに向かって足を踏ん張りくねくね

と体を曲げながら這っていくのでした。この馬力で長じ

Image9_5    たカミはチャンスより大きなになりました。カミは愛

玩犬の気性が強くチャンスは野性味

に富んでいる。おっとりのカミに機敏

なチャンスは何事も運動能力に優っているが

一つカミにかなわないのは高いところが苦手です。骨

太のカミはがっちりした体格で高いところから飛び降り

ても平気なのです。2メートル以上ある高さからコンクリImage10

の地面に飛び降りたときは驚きました。二頭とも泳げま

すがチャンスは水鳥を見つけると一目散に池に飛び込んで泳

いで追いかけます。また社交力にも富んでいて、ある

時散歩中に見通しの利かない角を回ると大きな犬が

目の前にいました。チャンスは瞬時に力の強弱を判断

したのでしょうか、くるっと体を回転させて仰向けになり白い腹を見せて無抵抗のポーズをとってしまいまし

た。また見知らぬ犬と出会った時はゼンマイのように相

手の回りを回りながら近づいていきます。見知らぬ人

に対しては中腰になって耳を倒し頭を下げ尾を大きく

横に振りながら近づきます。緊張した時には耳を折り

畳んで頭の後ろにぴったりとくっつけます。犬としての

ボディーランゲージが豊かです。心の毛皮を着ているようで全身のしぐさに心があらわになっていると感じさ

せます。そこで、ごまかしは下手です。怒られそうなこ

とをしでかして呼ばれると物陰に隠れますが見られて

いるので隠れたことになりません。それに比べて猫は

人が見ていると爬虫類のように固まって動きません

ね。しかし視線をはずし少し間を開けてもう一度見ると

どこかへ消えています。そこで視線をはずす振りをして

すぐ戻すと忍び足でのこのこ物陰に隠れようとしてい

ます。「おい!」と声をかけると急ぎ足で逃げていきま

す。二頭とも庭で飼っていますが。冬の寒い日、部屋

に入れてやると、チャンスはまっ先にコタツの中に潜り

込んでしまいます。しばらくすると、出てきてハアハアと

息をつきますが、体温が下がると、また潜り込んで出

てきません。対するカミはコタツには見向きもしない。

福岡の冬の寒さなどカミには何事でもないかのようで

す。布団をひいて休む段取りになるとカミは布団の足

下の方で丸くなって寝ます。対するチャンスはまた布団

の中に潜り込んできます。はじめの内は側に位置を占

めていますが、段々と中央よりに侵略してきて、最後に

はまん中でヒの字型に居座ります。わたしは体がよじ

れるわ、お尻がはみだして寒いわで、眠れたものでは

ありません。カミは素直で躾を教えるのは楽なのだが困ったことは、カミに教えるために強く言いつけている

とチャンスが私とカミの間に入ってきて邪魔するので

す。まだ小犬のカミのことが心配なのでしょう。また回り

をうろうろしているのでカミの気が散ってしまいます。チ

ャンスの場合は頑固者でした。すでに覚えていること

でも知らない振りをしたりします。物をくわえたまま歩く

ことを覚えさせようとしましたが私がくわえて四つん這

Image13_2 になっていただけでこの訓練は終わりした。また、ボー

ルを投げるとカミは見向きもしませんがチャンスは池の

中でも泳いで行って、くわえて返ってきます。山道で谷

の斜面に落とすとすっ飛んで下って行って、くわえて登

って来ます。また落とすとまた持ってきます。何度も繰

返すと可哀想なので止めました。でも、ひどいこともし

ました。「ストップ」することを教えようとして、長いひも

を首輪につけて、ボールを投げます。チャンスは追い

かけます。そこでストップの号令をかけて止まらない

と、ひもを引っ張ります。するとチャンスはもんどりうっ

てひっくり返ります。きついことをしました。チャンスよ、

ごめんなさい。

散歩の途中で放されている甲斐犬と出合いました。私

たちの後をどこまでも付いて来るので追っ払ってから

公園で休んでいますと、その甲斐犬が警察犬の

ように鼻を地面につけて追跡してきます。甲斐犬は鼻

がいいと聞いていましたがほんとに感心します。

広場で遊ばせているとはぐれてしまうことがあり、仕方

なく一人家へかえるとカミは先にハウスに戻っていま

す。でもチャンスは戻って来ません。日もすっかり落ち

てしまっても戻らないので探しに行きます。すると暗が

りの中、はぐれた所で待っているのです。そんなことが

二三度ありました。犬の奇妙な心です。

2009年11月 4日 (水)

マック哀歌

1、出会いと別れ (Apple買収される?)

リンゴ園で赤く色づいた果実をかじった

アダムとイブがそうしたように未知なる果実を味わった

わたしは面くらい、魅了され、罪を知る

そこには人の創意と高みがあったからだ。

神は人の創造に怒りを発し、雷を投げつけ嵐を巻起こ

風は激しく95もの窓を鳴らし、夜通しわたしの眠りを妨

げる

闇あけて低く雲の垂れこめた朝、静まった風に私は家

を出て、あの園を見た

果実はすべて地に落ちて雑草(WIN)の下に隠れてい

ただ、もう、腐るのを待つように


2、愚者の楽園で、後れて来たGUIが未来を食い尽くす

滑稽譚

はるかな昔に地上の支配者恐竜が、大地をカッポして

た時

ネズミ(哺乳類の祖)は草むらを這いずって、夜のやみ

に潜んでた。

未来には人間にまで進化する、運命をしょいながら。

20世紀の地球では、海の帝王にとりついた小判ザメ、

こともあろうにマウスちゃんを、くっちゃった。

「世紀の一瞬、世界が変わる」と。

マックたく、哺乳類の未来(PCの革新)は魚類の糞とき

えちゃった。

小判ザメのおこぼれにありつこうと集まり来たった雑魚

どもが、もみ手すりすり小判ザメを持ち上げる。

テンデノ愚劣に引きずられ、欺瞞と退化の深海の闇に

落ちながら。


3、覇業と御業

95の年 

ニュートンOSが賞せられた年。

大衆はこの年の名を持ったOSに標準{普及品}という

王冠を被せ、一人の男に捧げ自らの帝王とした。

96の年

帝王は航海案内王を攻撃し、旧宗主国は戦意を亡くし

たと評し、UNIX王を捕らえたと豪語した。

臣民は、征服(覇業)はローマ帝国に比すべしと賞賛し

た。

96の年の終ろうとする時、

つむじ風が起こり、あるものが立ち上がって呼ばわる。

”普及品の王よ!

創造をなしたものは誰か?

天を造り、海の面に大空を張り、水にその岸を越えな

いようにさせ、地の基を据えたものは誰か。

数と文字の外の世界を切り開いたものは誰か。

アートの世界を広げ、作成の道具を与えたものは誰

か。

結び付け、連なりを作り出したものは誰か。

あまたの大衆を呼び入れるすべを教えたものは誰か。

普及品の王よ!

いま、新たな変革の時を迎えて、この御業を、一体誰

がなしえようか?”

このものの腰に帯びている剣の名はOPENSTEP、す

べての環境を共存融合し、

常世まで続いた専制封建の互換体制を終らせるため

に。

 4、ニュートン哀歌 (Message pat2000発売直前に

して売却される?)

きみは二十歳の誕生日を前にして

わたし達のために一人、荒海に船出する

その身を任せた小舟が島影を見つけ

白浜にカイを休めることはあるだろうか

それとも

風雨が一飲みにして 黒波踊るおお海の 波間に藻屑

となってただようか

わたし達は身を削ずってあなたを育てたが

生き残るために とり合った手を放す

愛する子よ! 波しぶきを浴びてすすめ

君に託されていたビジョンの帆を張って

大海原の一点と化して

去れ

5、死の夜 (パワーブックの発火のあと)

中世の劫火に焼かれるように火につつまれて

滅ぼさるべき魔女として、消滅の宣告を受けながら

あの、みずからを焼いたものは・・・

本当は過去の宿業を焼いたのか。

失速し舞い落ちる無力な人形(スピンドラー)に

小判ザメの群がって食いあいし、戦利品の略奪戦

功績はすべて彼らのものとされ、

無辜の民も欺かれ彼らのものとなった。

天空は黒雲に覆われ夜は真の暗に包まれた。

今や世に見放されて、残ったものだけが息を殺し、暗

闇をにらんでいる。

時に、青白い雷光走り暗天の雲を引き裂き

Beなる者がい出来て

同時に4つの流れ星を走らせた

また、つむじ風起こり黒蜘蛛を散らし

Nextなるものが名乗りをあげ

同時に5つの流れ星を走らせた 

新たに天弓を張り、地を据えると呼ばわりながら。

黒雲の一画はあの燃え尽きたものによって破られた

それは時計の針を黒蜘蛛より速く動かすことだった

が、

彼らはそれを至極自慢していたからである。

長き暗やみの夜の中で人々はヨブのことを思いだして

いた

義人ヨブは不実な仕打ちを受け入れ、みずからを無に

し塵と化す。

世界は存在はするが条理にはあわない。

人々はみずからの運命と重ねあわせてそう思い、微笑

んだ。

その夜、裂き開かれた雲の合間から新月の光差し込

んで夜を紫に染め上げ

明かりを失った者たちに降り注いでいる。


6、別天地

街の喧騒から遠く瀟洒な避暑地の電脳力氏の館の窓

の中で

朝の木漏れ日がおさな子のまぶたの上で揺らいでい

むくろのような深い眠りの中にあって

その小さな胸は力強いリズムで新たな命を刻んでいた

ー明日には立ち上がるためにー

カーテンを揺らし清風が部屋の中に吹き渡った・・

おさな子は大きく胸をふくらませて寝返り、陽光入る窓

へ顔をむける

その時、手に固く握られていた小箱がころがった

それには青と赤の二文字が印されている、Beと


7、 リストラの断下る

四千余名の人々との別れの時が来た。

一つの愛らしい箱に夢見がちにつどっていた同胞は

粗野な市場の論理によって小さなものとさせられた。

今私の腕の中、うなだれ垂れた肢体のサイバードック

よ。

人は、まだ幼犬の君の走りが遅いとけなすが、私はそ

のけなげな走りが好きだった。

ならば、古代人の風習にならって、犬歯を抜いて家宝

として伝えよう。

わが宝となっていつまでも走り戯れよ。

追詩 結末と決別

サルの惑星のヘストンのように私は崩れ落ちてひざま

ずき、こぶしを地面に打ちつけ、うめき声をあげた。

「まったく何と言うことだ!MacOSがオープンでなくな

ったら、すべてが元の木阿弥じゃないか。」

やがてタネなしリンゴはコバンザメと手討ちして

互換機を追い出しMacOSのお山の大将

pcの歴史を演じる舞台からは退いていった。

わたしは疾風怒涛の三年間を回顧し、リンゴ園の山を

下った。

寒風吹きすさぶ日には、あのはげ山の一本木が風に

鳴くのを聞く、

吾こそは~~

    独り尊い~~

       システムカンパニー~~

すべては 遠い昔の物語となった

おわり

悪らつな書『菊と刀』

『菊と刀』この書は朝か昼に読まなければならなかっ

た。夜に読むと怒りが収まらなくて眠れなくなった。この

悪らつな書はもちろん政治プロパガンダだが、日本精

神と遭遇したひとつの魂が挙げた地底からもれ出てく

るような暗い悲 鳴である。悪意に満ちている魂アング

ラ・マインユがすべての善なるものの創造主である魂

アフラ・マズダーと宇宙の一画で遭遇し、アングラ・マイ

ンユが攻撃をしかけた 時、挙げた雄叫びの声もこのよ

うなものだったであろう。

1「各々その所を得」
この章は著者が考えるアメリカの徳である自由平等と

日本を競べるものだ。旧世界ではあるが人類の先頭を

走るヨーロッパと比べてもアメリカはこの徳を体 現して

いる国で、やがてヨーロッパでも起こるはずの発展の

前哨地点であると自慢するのである。そうであるので

最強の武器で日本人を叩くことができるので、まず日

本人にぎゃふんと思わせるためにこの章を編んだ。

「各々その所を得」この表題が個人間と国家間共に日

本人が抱いている観念全体の基礎だという。それは

「各人が自分にふさわしい位置を占める」と云う意味

で、日本人の階層制度の精神なのだそうだ。この国是

を日本はいつも表明している。三国同盟の条約調印に

当たっての詔にもこのようにある。

「大義を八紘に宣揚し坤輿 を一宇たらしむるは実に皇

祖皇宗の大訓にして…。今や世局はその騒乱底止ま

る所を 知らず人類のこうむるべき禍患また将に測るべ

からざるものあらんとす。朕は禍乱 の安定平和の克

復の一日も速やかならんことに祈念極めて切な

り。…、思うに万邦をして各々その所を得せしめ兆民を

して悉くその堵(家宅)に安んぜしむるは曠古の大業に

して前途 甚だ遼遠なり。云々」。

え?これは「各国が自国にふさわしい位置を占め る」

と云う意味か? 陛下は平和の実現を願っていられ、

民草タミクサも家宅に安住できるのを実現することが

政治の大業であると述べられているのだから「万邦、

その所を得る」とは「万邦がその場所を得る」ということ

で「ふさわしい」などの意味はない。各国がそれぞれ生

きる道を見い出す、即ちどの国も戦争で滅ぼされるこ

となく平和に民族自決を果たすことを願うと述べられて

いるのである。他の文献の用例ではこの句が「各人が

自分にふさわしい位置を占める」と云う意味がある

か? この詔の文脈ではこじつけ解釈である。そもそも

「ふさわしい位置」を表わすなら「その所を得る」ではな

く「その分を得る」と表現しなければならない。わざと誤

訳したのか、日本語に無知で彼女に都合がよい解釈

が生まれたのか。著者が書いているように日本人の階

層制度信仰をあらわすものと思い込ませようとした。そ

れだけではない。われわれの自由平等の信仰とは「極

端に異なった態度である」と彼女の国が重要としてい

るものをハル長官の覚書で示している。彼女等は彼女

等の用語で語る、各国の主権および領土の不可侵、

内政不干渉、国際間の協力と和解への依存、ならびに

平等の原則、の四原則をあげる。これらはアメリカ人の

平等と不可侵の信仰の眼目をなすものであって、国際

関係のみならず、 日常生活そのものが基づくべきもの

であると信じている原則である、と云う。一体、 彼女等

の御自慢の信仰原則と私が解釈した詔は「極端に異

なった態度」であろうか?  彼女のこじつけ解釈「各国

が自国にふさわしい位置を占める」にはどんな意図が

込 められているのだろう? この詔には「八紘一宇」も

でてくる。この句はアメリカに日本の世界征服のスロー

ガンだと糾弾された言葉である。日本を家長として、諸

国は日本を中心とする序列に従うべしとする、皇国思

想だと云うのである。こじつけ解釈で「各国が自国にふ

さわしい位置を占める」のが「階層制度の精神」とした

のは、日本人の階層制度信仰が世界征服の「八紘一

宇皇国思想」を導いていると論理付けるためだったの

ではなかろうか。【追記】『菊と刀』は綴る「平等はアメリ

カ人のよりよき世界の希望の、最高に してもっとも道

徳的な基礎である。平等の徳を支持する。そして正し

い憤りをもって 階層制度と戦う」と。それでは、ルース

さんにお伺いするが「各国の平等の原則」これは日本

に適用されたのか。ハリスと結んだ日米修好通商条約

は平等だったのか? この不平等条約を解消するため

に明治政府は多大や努力と時間を費やした。この条約

を提携する程に「圧政と干渉」はなかったのか。ペリー

の砲艦外交は史実ではないと言うのか? 大東亜協

栄圏政策には階層制の兄としての特権がはっきりと述

べられているという。「日本は兄であり、占領地の住民

は弟であるが、あまり思いやりを示し過ぎると日本の親

切に付け込む傾向を生む」。このように記されている

と。確 かに日本は思いやりを示し過ぎインフラを与え

過ぎた。おかげで台湾・韓国は戦後高度経済成長を遂

げた。対してアメリカの植民地フィリッピンは後陣を拝し

ている。日米どっちの国が領国を階層制に扱ったと言

えようか? 日本は日米修好通商条約での白人優越

主義の苦い体験から国際連盟で人種平等案を提出

し、人種や国籍による差別待遇の撤廃を条約に盛り込

もうとして多数の賛成を得た。しかし、アメリカはこんな

重要な問題 は全会一致でなければ決められないと反

対したことから採択されなかったのを忘れているの

か? 「平等がアメリカ人のよりよき世界の希望の、最

高にしてもっとも道徳 的な基礎である」と云うなら、ペリ

ー日本来航の10年後まで奴隷制を維持していたのは

なぜか? 北米大陸の先住民は大した人口を擁してい

なかったのに共生できず、また北米大陸への初期移民

が先住民に助けられて、冬を越すことができたの

に“恩を忘 れ”彼らに圧政を加えたのはなぜか? こう

いうのを“恩を仇で返す”と云う。これらの歴史事実を

博識な『菊と刀』の著者ルース女史は知らないとでも云

うのか?? ルース 女史よ、恥の概念を教えてあげよ

う。何もかも知っていて、空々しく図々しく嘘を付 く。こ

うゆう人間を指して日本人は恥知らずと云うのだ。

日本は確かに階層社会であったが、アメリカはほんと

に自由平等の国なのか。この人類の社会体制の歴史

推移を簡単に振り返ってみよう。人類がその歴史の曙

で40~50人の集団からなるバンド社会を営んでいた

頃。集団の意志決定はキャンプファイヤーを囲んだ成

人男子の話し合いで決められていた。成人男子は対

等で首長などの階層はない無頭社会である。経済面も

平等を原則としていた。そのやり方は朝一番にキャン

プファイアーを熾したり、狩など集団作業では獲物を射

止めたたもの、その獲物をキャンプ地まで運んだもの、

それぞれ生業に貢献した功績に応じて、肉は切り分け

られて分配される。つぎに贈与・宴席などで再分配が

折返され、その結果ほとんど均等な分配に落ち着い

た。これが政治的にも経済的にも平等な原始共産性と

いう社会だった。このような掟の社会は人類史の90%

も続いただろうが、いつの頃からか首長が選任され、

富の分配の不均等も許容される集団が出現した。きっ

かけは何であったか確定することはできないがこの新

たな掟が人類に広まり、旧習を守った無頭社会の集団

は辺地に生き延びることになった。富と政治力の違い

は身分制度となり、それは世襲されることが一般的と

なる。こんなことは社会人類学者のルース女史は良く

知っていることである。人類の階層性への移行はきっ

かけは分からないとしても広く行なわれたことから人間

性に則った必然的な人類史の動力によっているとし思

えない。邪悪な魂の日本人が発明したものでもないこ

とは縄文時代が世界史のなかで後の時代までも続い

ていたことが証明になる。女史は「正しい憤りをもって

階層制度と戦う」と書い ているが、日本人ばかりを責

めるのはお門違いだ。女史も階層制度を布いた祖先

の子孫で、無頭社会の民族の末裔ではないのだから。

ではルース女史の国アメリカは平等で階層社会ではな

いのか? 人類社会に平等を再興しようとする思想や

試みはしばしば現れた。女史はE・ハーバード・ノーマ

ンをネタ元にしているから知らないはずはないが「正し

い憤りをもって階層制度と戦う」ものが日本にもいたの

である。安藤晶益がその人だった。ノーマンは晶益を

賞賛しているのにルース女史は取り上げない。晶益は

聖人(世襲的為政者)を口を極めて糾弾した。そして

「誓って、身分階級のない世の中にしよう。」「人倫に士

農工商の別があるだろうか、ない」「人において上下・

貴賤の二別はない」「天下は万人が、直接己の糧を耕

す一人の人間になる。」と、万民農耕者の階層のない

社会を説いたのである。ヨーロッパでも幾つかのユート

ピア思想が現れた。やがてマルクス がでて無産階級

の労働者の独裁支配する社会を構想した。それはど

んな現実となって実現したか。富の分配では生産手段

と生活インフラの公有で私有財産の否定の形で平等

性を公言した。しかし、公有といっても私有しなくても立

派な邸宅に一生住めるのであればプロレタリア大衆の

粗末な習合住宅に住むより豊かな生活であるのに間

違いない。原始共産制と違うところは功績による分配

を欠いていたことである。権力はプロレタリア独裁とな

っていたが革命の前衛が指導するところに権力がある

のだから、 実体は党が独裁権力を振るった。前衛の

党人、労働者、旧資本家、旧富農、反革命分子などの

政治的階級分けが行なわれ、それらが継承されたこと

は階級性がいつまでも残っていた世襲されていたこと

になる。社会主義社会でも階層性は根強く残っただけ

ではなく権力は極限まで肥大したのである。アメリカの

平等思想はジョン・ロックなどからでているとできよう。

「神はすべての人間を平等に作った。ゆえに、人間の

間 にはいかなる従属関係も想定されてはならない。」

このような意見が発表されるようになり、フランス革命

では王侯や貴族が倒される事態も出現する。だがヨー

ロッパでは階級の旧習は完全には覆されなかった。旧

世界の歴史の遮断は容易ではなかったがアメリカ大陸

の新世界では新しい歴史を築くことができるとルース

女史は得意気なのであろう。ではアメリカはどのような

社会になったのか見てみよう。幕末の先覚者横井小楠

はアメリカ贔屓でワシントンを尭舜のように尊敬してい

た人物だ。その甥の左平太はアメリカに渡り、直接体

験したアメリカの事情を 書簡にて送ってきた。「米国は

さすがにワシントン以来の共和政治にて門閥・貴賤の

別はなく、大統領より以下一人も僕を連れたものをみ

ない。…人材の採用に各々その長ずる所に従い職を

委任する。これらのこと公平正大なこと感心する。」と

ルース女史がそれ見たことかと自慢するようなことを

書いている。だが続けて「父母に仕えることはなはだ軽

薄。洋人は外見は美を飾るも、心中は表裏多い。一切

義理を重んじない。却って義をもって愚という。耶蘇教

は盛んだが教えを聞けば一つとして信じ難いことば か

りだ。そして下民は大統領を軽んじている。西洋無道

無人なること分明なり」とも書いていた。アメリカと日本

の文化衝突である。甥の左平太はカルチャーショック

を 受けたようだが、夏目漱石がイギリスでノイローゼに

なったのも彼の国の個人主義にあるようだ「一切義理

を重んじない」(義理とは付き合いの守るべき礼儀・

掟)と書いた甥の左平太も一年あまりでただ一人も親

友を得なかったと綴る。アメリカは階層制がない社会

かを問えば、身分制はどうだろう。本当に門閥閨閥は

ないのか、これは人類が好む習慣・習いだ。戦後の日

本も政界、経済界、官界で新たな閨閥が生まれてい

る。アメリカにも閨閥はあるとする本が出ているがそれ

は本当だろう。人間が閨閥を作りたがる理由は血のつ

ながりは社会関係で安定安心できるからである。もち

ろんこの関係は世襲されることに意味がある。閨閥は

昔の身分制のような法的特権はないが排他的利益共

同体である。アメリカ社会も上層部は階層を作っている

ということだ。人材の登用は移民の国民国家から出発

で来たことにあるだろう。歴史を積み上げた自然発生

の国は主従関係を結んで力を貯えた豪族・グループの

連合体からなっているので、自己の勢力・グループか

ら人選するのは避け難い。アメリカは互いを社会契約

関係で合意して国を作った国の利点である。

アメリカの身分制はこんなものだろうが日本の身分制

はどう見ているのか。ルース女史は日本の身分制をカ

ーストと呼ぶ。カーストの身分は生まれ落ちた後で変え

られないものであり、職業も決まる。結婚も原則おなじ

カースト内で行なわれる。日本の身分制はこんなきつ

いものではない。世襲性があるからカーストと決めつ

けて日本人の階層制を極端に見せようとする。「日本

は上から下まで階層制によって組織されている唯一の

国である」と書く、それは言い過ぎである。今でも欧米

の企業はブルーカラー、ホワイトカラー、経営階級が確

然と区別されている組織だ。日本の企業の方が親和

的だ。昔の日本で農民の秀吉は天下人にまでなれた。

信長に仕えたフロイスは、ヨーロッパでは夫婦で財産を

共有しているが、日本では別々で夫に貸して利息を取

っているものもいる。妻から離婚を言い出すこともあ

る。離婚が女にとって差し障りになることもないと綴っ

ている。これなどは中世では日本の女はキリスト教の

ヨーロッパ以上に自立していたと言える。階層性が強く

なるのは徳川幕府が儒教を公式な学問としてからだ。

日本の世襲制は社会の固い掟というよりも当人の便

宜からそうしている意味が大きい。家業を継ぐのが家

産を利用できるのだから有利なのに過ぎない。呉服問

屋の若旦那は店と在庫資産を継ぐのが有利だ。薬屋

の子弟も同じだ。大工の子は大工道具と大工の親方と

の関係も大工仲間の関係も引き継ぐのが有利だ。武

士の子は殿様に親子で仕えるのが譜代の臣の忠義と

なる。江戸時代の士農工商の身分分けは中国に習っ

たものだが、もともとは法家の思想からでている。『管

子』では四民を雑居させてはならないとしているが、そ

れは身分の上下付けのためではなく、職務に分けて目

移りさせず専心させるためにそうする のである。ルー

ス女史は武士と農工商の間は超えられない隔たりが

あって、この三階級は庶民であるが、武士はそうでは

ないと書いている。その通りで、農工商には身分の差

はないでしょう。農民が商人にたいして威張っていたわ

けではないでしょう。農民の子は田畑を継いだが、長

男以外は分けてもらえる土地がないと、商家や職人に

丁稚奉公にでた。商家では良く勤め上げれば分家して

店を出すこともできた。そうなれば立派な町人の身分

だ。生まれながらにして職も決まるカーストではないの

だ。富農は大規模な商いに従事しているものもいた。

この富農は商人でもある。江戸時代、戸籍上の百姓の

身分は実体を写していないのである。身分により生業

は固定されていなかった。芭蕉、西鶴、近松 はもと武

士である。生計を自ら文芸の道に選んで町人階級にな

った。秀吉の時代と違い、江戸時代に武士に昇格する

のが難しかったのは平和の時代になって藩主も新来

の家来を抱える必要はなかったからだ。武士が農をか

ねることができない農兵分離政策を取り上げて年貢を

取り立てる寄生的階級の一員になったと非難がましい

が、そして中国の科挙に見られるような非階層性は日

本では見られないように臭わせているが、江戸時代は

武士が行政官も兼務していたのである。中国にまねて

儒者を行政官とし、武官として譜代の家臣にも封碌を

与える仕組みでは幕府にも藩にもより多くの財政負担

をかける。そして主君は武功を譜代の家臣に多く期待

できた。ヨーロッパでは雇い兵の習慣があった。その多

くはスイス人が雇われた。雇われたスイス兵は適当に

戦ったのである。“仲間”だからである。譜代の家臣は

合戦で奮戦する。主君と運命を共有する譜代(祖先

代々)の家臣だからだ。だからこの階層は必然的に世

襲になる。生死を共にする忠誠心を得られたからであ

る。ルース女史は異なったカーストの間でも通婚の公

認の手続きがあったと書いている。ヨーロッパの諸国

より階級間の移動を承認されていた。そしてヨーロッパ

と違い貴族との間に階級闘争が行なわれた形跡が全

然認められないと書いている。それは階級間抑圧が少

なかったからだ。日本にはヨーロッパでは一般的な農

奴はいなかった。「百姓一揆」と呼ばれているものは飢

饉の際の暴動は別にして、封建領主との年貢米の条

件闘争の紛争である。ヨーロッパで農民が領主と税の

交渉をするなどあり得ないことだった。それでも日本を

階層信仰主義、カースト制度と言い張っているのは論

理破綻ではないか。

エタ・非人も取り上げている。これを不可触賤民として

いるのは言い過 ぎでないか。非人は物乞いの特権を

もっていたそうだ。定職のない浮浪者や一部芸人 も含

まれ、ゴミの回収の仕事に従事するものもある。夜逃

げして無宿者になったものも指す。エタは十手を預かり

末端の治安に係わった。アメリカでいえば貧しい新参

の移民がこの階層に近いだろう。下人は取り上げてい

ない。所謂人身売買で身の振り方の自由を失った奴隷

扱いされた者たちだ。戦国時代バテレン大名達は日本

人を奴隷にして東南アジアで輸出していたそうだ。 秀

吉がバテレン追放令でこれを禁じた。愛を説教するキ

リシタンの一面である。江戸時代人身売買は死罪にな

った。奴隷身分も廃止された。遊女への身売りは認め

られた。日本では世襲奴隷はいないと朝鮮通信使が

書いている。下人に触れないのは黒人奴隷制を日本

よりずっと後まで維持していたので都合が悪かったの

でしょう。そして、奴隷制が廃止されてから待遇が改善

されたわけではない。1960年代の公民権法の制定を

待たねばならなかったし、心情的差別感は今も続いて

いる。ルース女史にとって下人こそ触れてはならない

賤民だった。(笑)

家族も階層関係として言及する。母親は子供を背中に

縛り付けて歩くと書いている。背中に抱く方が子供 に

とって良いのだと今では分かっている。昔の日本人は

なぜかそれを知っていた。これを何か虐待でもしてい

るように表現している。長男相続権も階層制度が家庭

生活の根幹になっていると非難するが家産の分散細

分化をさける手段と評価してもよいではな いか。でも

家長の評価は無制限の権力をもった独裁者ではない

とちょっとは文化人類学者らしいことも云う。重大な事

件が起こると家柄の上下を問わず、家長は親族会議

を召集する。どんな取るにたらない人間の意見も取り

上げられる。家庭内では格下の弟や妻の意見が決定

を左右することもある。家長も皆の意見を無視して行

動すれば困難な結果に陥ることもあると書く。ここのと

ころは文化人類学者として階層主義には反した事例で

も少しは本当の事を書いた。文化人類学者の専門分

野の事柄なので嘘をついて事実でないことを書くと学

者としての評価を落とし、面目を失うと考えたのだろう

か。では、身分制は分かったが富の階層制はアメリカ

と日本ではどのように競べられるか。

年貢が4割であるのは稲作国であるシャムの1割とくら

べて高率と非難 している。江戸時代の農民は米を年

貢として徴収されたが副業に商品作物も作っていた。

隠し田もあった。農民の全収入の四分の三は農業によ

るものではなかった。手工業から得ていたようだ。それ

で現実の税率はぐっと低かった。農と工を兼ねていた

ことは職業も決まるカースト制のような固い社会ではな

かったのである。江戸時代に千件もの一揆があったと

書いている。それは凶作の時の一揆でなければ、普通

の一揆は年貢率の条件闘争であると近年の研究では

分かっている。何と日本の農民は封建領主と税率の交

渉をする力があったのである。ヨーロッパの農奴制で

は考えられないことだった。日本の方がよほど民主的

だったのである。ここに日本では革命が起らなかった

一因を見ることができる。単純な話、ヨーロッパや中国

のように暴力に訴えないで済んだのである。ここは嘘を

付いたのではなく、ルース女史は日本の左翼学者の

貧民史観に騙されているのではないか。ペリー提督が

艦隊をひきいて姿を表わしたころの日本国内は極度の

貧困に陥り窮地に追い込まれていたと書いている。こ

れは嘘である。アメリカとの条約が結ばれてから例の

金貨流失が起こり大衆は窮乏を感じるようになったの

である。封建領主は大商人の借金付けになっていたと

書いている。しかし、一般の町人には触れない。江戸

時代は芭蕉や西鶴や近松が町人のパトロンを相手に

文芸で生計をたてることができた。大衆演芸の歌舞

伎・浄瑠璃も盛んである。浮世絵が売れ、町人を主人

公にした物 語も書かれ、旅行小説も読まれ、たくさん

の人が伊勢参りにでかけた。総人口の三分の一が旅

行に出かけた年もあった。これも農奴制ひいているヨ

ーロッパでは考えられないことだった。これらはヨー ロ

ッパのように貴族がパトロンとなっていたのではない。

大衆文化が栄えていたのである。ヨーロッパでは大衆

は貧民と呼ばれていたが、日本では町人も農民も余裕

がありエンゲル係数は高くなかったようだ。この近世の

歴史をルース女史が知らないはずはない。 現在の日

本も子娘がヨーロッパのブランド商品を買い漁っている

のはおなじである。 外国人が観光に来て有名な日本

庭園を見てこじんまりしているのに驚く。中国やヨーロ

ッパにあるお城のようなものではないからである。日本

の富の階層性は緩やかだったことを示している。アメリ

カの富の階層性はどうだろうか。アメリカにも上層部に

門閥閨閥グループがあるのは否定できない。ロックフ

ェラー家はその資本と事業を世襲 しているに間違いな

い。日本の近年の所得税最高税率80%にも及び、ま

た相続 税の高さは富の世襲を脅かした。立派な邸宅

を建てる敷地も納税のため切り売りされて、小家となる

ありさまだった。アメリカの経営者は高額の報酬を取る

ので有名だ。かたやニューオリンズの黒人は車社会の

アメリカで中古車も買えないのだ。近年、隔壁で囲まれ

た町が出現している。同じ所得階層が集まって城壁を

築くそんな町が現れている。治安・防犯のためである。

城郭都市はヨーロッパにも中国にも歴史的に存在した

が、日本では大陸文化が入ってきた弥生時代しか経

験がない。(環濠集落など) 大和朝廷の都、平城京も

平安京も城壁は築かれなかった。それは下層まで生

計が成り立ち盗賊などすくなかった。アメリカンドリーム

と云う言葉がある。アメリカは一獲千金を夢見る社会

だ。富の寡占を容認しているような所がある。アメリカ

は移民で成り立っている国だから、本質的な同族意識

がないのだろう。同民族意識、家族意識があれば同じ

祖先同じ親から生まれた兄弟国民は対等意識がある

ので、急激な格差の拡大は反発を招くのが普通だ。ア

メリカの富豪は金の力で王侯が権力で手に入れていた

ものを手にしているのだろう。人間には身分羨望があ

るものだ。資産の過多が身分意識になっているのかも

しれない。一説によるとアメリカ社会の富の80%を10%

の富裕層が所有しているという。そんな巨大な資産は

蕩尽する方が難しく世襲されていく。アメリカは富の階

層性が過酷な国なのである。

河上肇は在欧体験から随筆でヨーロッパは夫婦の間

でも平等が徹底しているが、強烈な階級社会でもある

と書いている。何から判断しての事か分からないが、ヨ

ーロッパでは今でもクラス社会であるとはよく聞くこと

だ。ルース女史は「平等はアメリカ人のよりよき世界の

希望の、最高にして もっとも道徳的な基礎である。平

等の徳を支持する。そして正しい憤りをもって階層制

度と戦う」と大見得を切り、欧米と異質の不可知な日本

人の魂を斬り捨てようとしたが、その振り上げたサーベ

ルは刃こぼれしていることが分かった。

、【追記】

冒頭に話題にした「各々その所を得」には隠されたも

のがあった。ルース女史は他のひとつの文献の引用

例も出している。この文献にも「万邦ヲシテ各其ノ所ヲ

得シメ」の句がでてくる。この引用は前文を省いたもだ

った。その前文とは以下のものです。

(前略)過去百有余年ニ亘リ英米ノ帝国主義的搾取政

策ノ下ニ現状維持ヲ強ヒラレ両国繁栄ノ犠牲タルニ甘

ンセサルヲ得サリシ歴史的事実ニ鑑ミ云々。

このあとに「右ハ万邦ヲシテ各其ノ所ヲ得シメントスル

帝国ノ根本国策ト全然背馳スルモノニシテ帝国政府ノ

断ジテ容認スル能ハザル所ナリ」とつづきますので、

何と!「各々その所を得」とは英米の帝国主義階層支

配に反対する言説だったのです。ルースが前文を省い

て、こじつけで逆の解釈を施したのはこの『菊と刀』が

文化人類学の学術論文ではなく、日本を道徳的に欧

米に劣ると見せ掛けようとしたプロパガンダであること

の証拠である。

『菊と刀』つづく

悪らつな書『菊と刀』 その2

2 戦中の日本人

日本人はもともと特には精神主義ではない。神道は物

の豊穰を祈る信仰で、禁欲の戒律も乏しい。『菊と刀』

にも書かれているように、肉体的快楽をよいものと考え

ている。キリスト教のように人間を霊と肉に分けて肉を

否定するようなことはしない。伝統的社会も「仁義ある

のみ」の儒教の精神主義ではなく、「富国強兵」の法家

的物質重視主義に沿っていた。がしかし、徳川幕府が

儒教を正式に取入れてからは精神主義に傾くが、戦で

の敢闘精神は昔からのものだった。戦争中に精神主

義が高まったのは交戦当時の清国も国力は日本に勝

っていたし、日露戦争も国力が格段に上の国との戦争

だったので、これを組織力と敢闘精神で戦い勝利した

から、精神主義が芽生えたのは確かだろう。自国に国

力が勝る大国と戦わなければならない歴史の宿命で、

いよいよ最強のアメリカと戦うのだら敢闘精神に集中

するしかない。日本はアメリカ国民の戦意を削ぐのが

狙いだったが、戦争末期には他の資産は使い果たし

精神にしか頼るものが残されてい なかった。

捕虜の扱いの問題は、ビンタを張ることが日本軍の悪

弊になっていた。ビンタはフランスがアフリカ人を軍事

訓練する時にやったものらしい。幕府はフランス軍の

助力を得て近代戦を学んだようなのでこの時に日本に

持ち込まれる。軍は捕虜の管理に朝鮮出身兵をあて

た。この兵が劇しい扱いをしたようだ。「虜囚の恥ずか

しめを受けず」の問題は日本が相手にしなければなら

なかった敵国は捕虜の国際条約を遵守するような相手

ではないのである。国際条約違反はアメリカもその例

にもれない。焼夷弾と核で民間人を焼き殺した。占領

軍が禁止されている内政干渉を行った。日本の相手は

国際間の“義理”を知らない野蛮国ばかりだ。

日本軍は敢闘精神を発揮した兵隊には敬意をもって

対応している。日本軍が敵兵も手厚く弔うのは伝統で

ある。ところで、中国人が南京で日本軍が大虐殺・婦

女姦淫をはたらいていたと告発している期間に、南京

ではアメリカ人がビンタを張られた事件が起る。一週間

その話題で持ち切りだったそうだ。大虐殺よりビンタの

ほうが話題性があるらしい。

3 恩

女史は戦争中に知ったあの極端な自己犠牲は日本人

が債務を負っているさまざまな責務から来ていて、そ

の観念はわれわれには未知のもので、それに当たる

日本語は恩であると書いている。恩は本当はアメリカ

人に不可知なものではない。アメリカ人も恩に着るので

ある。アメリカでは奨学金をもらって大学で学び、社会

に出た成功者が通った大学に寄付する習慣がある。こ

れが恩にまつわる一連の行為である。奨学金をもら

う、大学の教授にねんごろな指導を受ける、これが恩

である。この恵みを受けるたことをありがたいと感謝す

る。これを恩に着るという。社会に出て成功し感謝の念

を込めて大学に寄付する。これが恩返し・報恩である。

恩情は恵みを受けること、即ち助けられる、救われる、

育てられる、大切にされる、親切にされる、ことから生

まれる。この恩をルース女史は“債務の負い目”と定義

する。そして、われわれアメリカ人は愛を義務の拘束な

く自由に与えるものと書いている。無償の愛、アガペと

言うやつだ。アメリカ人とは神のごとき人々なのだ。こ

んなこと臆面もなく言えるのだから恥の感覚が日本人

と違うのを窺わせる。そしてカミカゼ自殺機搭乗員も硫

黄島の玉砕も、皇恩への負い目の返済なのだとみる。

さらに孝行も親の恩への負い目なのだと書く。また「す

みません」は感謝の言葉として使われるがこれは恩を

提供してもらったが、そんなことしてもらって後ろめた

い気がする。あやまればいくら か気が楽になるが恩返

しするにも、どうにもしようがないことだ。として使われ

ると書く。これでは日本人はまるで何もかも損得勘定で

やるように見えるではないか。ルースよ、それほどまで

に貶ケナしたいのか、底意地の悪い女だな。そんな女

が「カタジケナイ」を意味付けると恥辱を表わす漢字が

当てられるので「このような恩を受けて面目を失った。

賤しい身分の私にはふさわしくないことで遺憾に思う

が、丁重に感謝する」となる。すでに死語になっている

文語をもちだしたが、確かにカタジケナイには過分な評

価や待遇に恥じらいを感じているが、あくまでも丁重に

扱われたことへの感謝の念を表明した言葉であり、面

目を失ったと恨んでいるのではない。恥じらいを感じる

のは日本人の内省性の高さ、奥ゆかしさである。どこ

ぞの民族のように天狗 になって、つけあがるのではな

い。また、いろいろ下らないことを書いているが論評は

すっ飛ばして結論を急ごう。恩における一連の現象は

太古互恵社会を営んでいた人類の習 性から出てきて

いるでしょう。互恵集団で狩で獲物を射止め、多目の

分配を得たものは少しの分配にしか預からなかったも

のに分け与えた。この行為は互恵集団内で折返され

る。これが恩と報恩の原形であり、贈与である。互恵集

団が他の互恵集団とそれぞ れの財を物物交換するこ

ともある。この場合は等価同時交換で、これが売買契

約取り引きの原形である。女史は恩と報恩また贈与と

反復贈与を売買契約に見せ掛けようとしている。契約

では債権債務が生じ、財物を買ったものは対価を必ず

支払はなければならない。これは逃れられない義務債

務である。方や、報恩は原則出世払いであり、余裕が

できた時に返す。ルースは報恩、そしてまた日本人の

人間関係の礼儀・掟である義理を債務であることを示

そうとして、返礼は利息みたいなもので時間が経過す

ると大きくなると嘘をつく。具体例として、日本人の出

版者がアメリカ人著者への返礼の遅れで、桜の木の礼

物が盛大になって「きっと、あなたは返礼が遅れてよか

ったと思っているでしょ う」などと、遅れて得になってよ

かったなどと言わせている。日本人が、そんなはしたな

いこと、言うか! 言ったとすればアメリカ人の通訳が

口を挟んだセリフだろう。また、ある商人のかっての先

生の甥があらわれて、金銭の援助を求める。生徒だっ

たころからずいぶん歳月が経過しているので先生の恩

の負債は膨らんでいる。商人は世間への申し訳に不

本意ながら支払わなければならない、と。そんなバカ

があるか! 日本人の付き合いを損得勘定だけと、間

抜けな作り話で印象付けようとしている。それは家族

関係にまでおよぶ。長々と書いてくると次第に地金が

出てくるのか「親は子供のために多大の犠牲を払い、

妻は夫のためにその生涯を犠牲にし、夫は一家の生

計を立てるために自己の自由を犠牲にするのが、まず

標準的な西欧人の信条である。」と告白した。無償の

愛に満ちている家庭でそんなにも誰も彼も犠牲者と感

じているのか? それはさておき、日本では親の恩愛

の報酬は子の絶対服従であると書いている。料理屋を

経営しているある母親は公金をちょろまかした。その母

親の息子の妻は責任を取って子供を道ずれに自殺す

る。自分の家庭を破壊されたその息子は母に一言いう

こともなく人格を練り上げるために独り北海道に旅立

つ。何と荒唐無稽な話しであるがこれが日本映画の筋

なのである。儒教の孝行譚「子は親のために罪を隠

し、親は子のために悪を隠す」には、ありそうな話だ

が、よほどお母さん子の息子である。お見合いの話も

出てくる。お見合いでは「いやだ」と言うこともできる。

でも世界には親同士の約束で当人同士は顔も見ない

で結婚する習慣の国もある。日本だけではない伝統的

国の“家長支配”の習慣である。家長は家柄を保ち、で

きることなら家柄を上昇させるのが務めである。アメリ

カだって上流階層は家柄を考えないはずはない。それ

が閨閥である。「地震、雷、火事、おやじ」が日本では

忌わしいものなっていると書く、ほんとに昔は親父は怖

がられた、いまではアメリカ文化のせいで?粗大ゴミ扱

いだ。嫁と姑の反目にも触れ、嫁は将来自分の息子の

嫁に対して権力を揮う日の到来を楽しみにして待って

いると、底意地の悪い推測をしている。「日本の孝行の

特徴である家族相互間に見られる顕著な怨念。」なの

だそうだ。では、欧米で「スープの冷えない距離」はど

んな意味か。親と子供夫婦の間の距離なのではない

か。愛に溢れている家庭でなぜ三世帯一緒に住めな

いのか、東洋人から見たら寂しいではないか。核家族

は個人主義、自由主義の欧米の最新文化か? でも、

太古から現在にもそんな生活を楽しんだ民族がいる。

南米の狩猟採集民であるムブティー・ピグミーは蜜猟

の時季になると各家族はそれぞれが見つけた蜜のそ

ばに引っ越してばらばらな生活に入る。村のキャンプを

離れることを選ぶ意味は自由気ままな生活を楽しむ。

共同生活は規律に従うこと、気を使うことも多い。 集

落・社会とは人にとって親しいものでもあり、わずらわ

しいものでもある。生計が自足できる時期は自由な生

活を選ぶのである。ところで昔15世紀まで、ヨーロッパ

は貧しかった。オリエント貿易で輸出するものは毛皮

か蜜ろう位しかなかった。そんなヨーロッパでは黒海貿

易が行なわれていた。そこでは美人の産地のポーラン

ドやまたスラブ民族から略取してきた奴隷を売ってい

た。奴隷は限りなく利益の多い輸出品だった。イギリ

ス、フランス、スペイン、オランダ、ポルトガルの主要な

産業だった。身に付いた天性の狂暴性と奸智でアフリ

カやアジアからも略奪できるようになると、各々家庭に

も余裕が出てくる。そこでヨーロッパ人は家族相互間の

怨念を断ち切るために核家族に移行していった。この

ようにルース女史よろしく、嫌みったらしく推察しますが

外れているだろうか。

4 日米のしつけ

幼児の躾の欧米と日本の違いに付いて書いている。

欧米は生まれ落ちた時から躾を始める。授乳や就寝

時間を守らせる。指を加えたり、性器に触れるのを禁

止するために手を叩く。母親はしばしば姿を消す。出

かけた時は家にて待たなければならない。決められた

ことをしなければ罰せられる。ところが日本では赤ん坊

と老人を自由に我がままにさせている。今や保育学で

は幼児にこんなに負荷をかけるのは間違いなのであ

る。唖然とさせられる記述だ。

日本では壮年期の体力もあり、金もうけする能力も頂

点に達する時期に自分の生活を好きなように過ごす権

利を認められないと書く。ルース女史ますます地金を

表わしてきた。能力の頂点に達する自由時間に金もう

けをするのだそうだ。アメリカ人らしい。中西輝政氏に

よると、アメリカに渡ったピューリタンは「お金が儲から

ないアメリカには何の価値もない」と、書き残している

のだそうだ。「心、利上の一途に走り」(横井生書簡)は

間違った観察ではなかったのである。

ある白人の観察者は日本人ほど子供を可愛がる親は

いない。日本人ほど親を信頼している子供はいないと

綴っていた。女史の躾の実体の強制性を知ると親子関

係が思い知らされる。犯罪者を追い詰めて包囲した場

合、日本では母親を連れてきて罪に服くするように説

得させる。ところが、アメリカではそんなことをすれば犯

人を興奮させるのでやってはいけないことなのだ。幼

児期、親の強権の罰に伏くした犯人は親の顔を見ると

恐怖するのは当然のことだろう。欧米は親子の関係も

脅しで始まっているのである。こんなことも書いてい

る。「アメリカ人の良心がいかに罪の意識に悩んでいる

かと言うことは、すべての精神病医の承知している所

である」。こんなことを自慢している。バカか! 未だ幼

児が、授乳や就寝時間を守らされ、指をくわえたり、性

器に触れて手を叩かれ、決められたことをしなければ

笞打たれる。そんな幼児体験をもった人間が罪悪脅迫

症に陥るのは無理もないことである。

ヨーロッパでは教師も笞を使う。中国の漢字の教の又

は笞を表わしている。日本の親子関係との違いを知れ

る民話がある。うる覚えで申し訳ないが次のような話で

した。「不良息子が死んだが、葬った墓から腕が飛び

出してきた。牧師に相談すると、笞で懲らしめなさいと

助言される。母親は日夜笞を振るった。肉はちぎれ、

白い骨があらわになる。なおも数日笞を打ち続けると

腕は土中に埋もれていった」。日本の親子関係では生

まれ得ない筋立てである。女史は日本の子供は何一

つ神々を恐れる、また神々に監視されていると思わせ

る教育を受けないと書いている。幼児は神などと言わ

れても分からないから少し大きくなると神の目の監視

を教わる。親の目や他人の目は誤魔化せても神の目

はごまかせない。これは最終的な脅しである。これは

道徳規範ではなく法秩序の形式だ。欧米の子供は欧

米人の愛好する用語“内面の良心”を働かせる余地が

あるのか? 神の目は他律的規範だ。では、日本の子

はどのように教育されているのか。日本でも民話は子

供への訓戒として働きがあった。「六部の霊」はこんな

話だ。昔昔、ある所に百姓屋があった。月夜の晩、六

部がやってきて、一晩止めてくれと頼んだ。どっさり金

をもってそうなんで、親父は泊めてやる。夜中におやじ

は、枕がずれてるよと、頭を持ち上げて、押切りをあて

て首を切ってしまった。その後、立派な家を立てる。ま

もなく、男の子が生まれる。唖だった。その子が十三に

なったある月の夜、おっかさんが小用をさせようとする

と聞かないので、おやじが、この餓鬼、おれが連れて

いくと立って厠に行った。おしの子が、おとっさん、ちょ

うど今夜のような晩だったな、といった。おやじがハッと

思って顔を見ると、あの六部の顔だった。以上。  ここ

にはおやじを罰する神様も他人の目も出て来ない。出

てくるのは殺害者のおやじと被害者の六部だけだ。加

害者は被害者に面と向かって責められる。これは加害

者の恐れは第三者の目の判断にあるのではなく、被害

者の災いを推し量る加害者の内心にあるのだ。西欧の

民話はあのアダムとイブの失楽園の教話が典型的で

ある。罰するのは被害者ではなく第三者の裁判官の神

である。さらに蛇や女に当たるものが出てくる。これは

唆ソソノカす者である。アダムは唆されて罪を犯す。ア

ダムの罪は半減する。西欧の民話では被害者の影は

ない。被害者への加害者の思い、罪悪感は感じられな

い。ただ神の煉獄の永遠の劫火に身を焼かれるの罰

を恐れる。これを心理を裏付けるものにモーリス・パン

ゲ著『自死の日本史』にある。「日本人が西欧的な生

活習慣を見てもっとも驚くのは、ヨーロッパ人が自分の

責任を正面きって認めようとしない態度である」と。内

面の良心は働いていないのだ。日本の民話「鳩の孝

行」はこんな話だ。むかし、鳩はひねくれもので、ちっと

も親のいうことは聞かない子であった。親が山へ行け

といへば田へ行き、田へ行けといえば畠へ出て働いて

いた。親は死ぬ時静かな山へ葬ってもらいたかったけ

れども、反対のことをするだろうと思って、河原へ埋め

てくれと頼んで死んでいった。ところが鳩は親が死んだ

ものだから始めて悪かったと気付き、言い付け通り河

原に墓をこしらえた。しかし、川のふちでは雨が降る度

に墓が流れそうで気掛かりでなりません。雨が降りそう

になると、悲しくなって『ととっぽっぽ 親が恋しい』と鳴く

のです。以上。 こんな話を聞いた子はやさしい子にな

るでしょう。

江戸時代や幕末にはヨーロッパの多くの観察者が日

本の教育や親子関係を賞賛している記事を残している

が、一切無視して取り上げない。

5 日本の道徳律 まこと

ルース女史は手淫は日本人の全然罪悪と感じない享

楽であると書く。われわれは成人する前に、意識の中

に深く刻み付けられる。少年はそんなことをすれば頭

がおかしくなるぞと。西欧人は幼年時代に母から厳重

な監視を受ける。もしその罪を犯せば母親は体罰を加

えることがあったと書く。なんだ、せんずり掻けばバカ

になると云われていたのは舶来思想だったのか。神話

の荒魂のスサノオについてこのような神は高等な倫理

宗教においては排除されている。日本の宗教は善と悪

を分け、徳とは悪と戦うことであることをきわめて明瞭

に否定してきたと書く。日本人は人間性として生まれつ

き善だから、悪い半分の自己と戦う必要はないと主張

するとし「私の母は罪の内に私を身籠りました」と叫ぶ

神学を持たないと書くのである。欧米人が原罪による

贖罪感に敏感だとの罪の文化論を導く前口上なのだろ

う。そして日本の道徳律に“誠”を取り上げる。女史は、

日本人は誠こそ最も肝要な教えであって、さまざまな

道徳的教訓の基礎はこの一語のなかに含まれると主

張すると書いている。その通りだ。子供の訓戒に「嘘つ

きは泥棒の始まり」とよく聞いた。犯罪の端緒が盗みで

その発端は嘘を覚えることにあると考えられていた。ま

た「正直の頭に神宿る」と讃えられ、まこ と・正直・清明

は古来から日本人が最も重要視した徳目だった。この

「まこと」を女史がどのように理解しているかというと。

英語のsincerityにあたるが、日本の誠はその人の心

を支配している愛や憎しみに従って行動することとは

違う。それは自己をさらけだすことから恥であると書く。

英語のsincerityとは素直、さらけだすとの意味がある

のか? それなら正直には近いものがあるが。日本人

が誰かが誠意がないと言う時は単にその人が彼と意

見が一致しないという意味に過ぎないとも書く。これは

日本の誠の意味ではない。女史は日本の政治家達は

米英両国を誠がないといつも非難してきたと書くが、こ

の日本の政治家達は米英を不正直だ、と言ったのだ

ろう。素直、さらけだすは正直とも少し意味が違うから

英語のsincerityと日本の誠は意味がずれているよう

だ。女史は何と思ったのか誠を批評して、独立した徳

ではなく、狂信者の自らの教義に対する熱狂であると

結んでいる。何を血迷ったかルース自身が熱狂してい

る。軍人勅諭に誠実たれとあるのでこれから解釈して

いるようだ。この誠実は真心で務めよと諭しているのだ

が、真心で悪事に励むなどの表現はありえないのだか

ら、真心も徳目なのである。誠の概念は別に難しいも

のではない。正直、清い、である。日本の古来の穢れ

ない、穢キタナくない、から来ているのでしょ う。欺か

ない、偽らない、ことである。真心・真実でもある。中国

が仁を最高の徳目にしているのに日本では仁は価値

が低くヤクザの徳目だと書いている。ヤクザは仁義を

ヤクザ同士の礼儀、掟の意味に使っているので、べつ

に日本で仁の徳格が低いわけではない。日本では和

語で「情け」が仁の意味で常用されている。「なさけ」は

愛す、好む、恵む、であるが、惠むは与える、助ける、

救う、育てる、ことでしょう。中国の仁、欧米のloveよ

り、また情けより日本人は「まこと」を「道徳的教訓の基

礎」と したのはなぜなのだろうか? 愛す、恵む、は善

であり、美とも言えるが、まことは真 (真実)善(欺かな

い)美(清い)を兼ね備えているからか? また、愛・恵

みは不徳を好む、悪徳を愛す。悪人を助ける。と言え

るように不道徳的なものにも係わることができる。即ち

善悪に関係ない側面もある。誠は悪に係わることがで

きないからか?

6 罪と恥

世間体、世評を気にするのは伝統的に合議制の国だ

ったからでしょう。世界がキャンプファイアー民主主義

の時代から去り、身分制が広がる。日本では弥生時代

以降本格的身分制が始まると思うが、弥生時代を写し

たであろう神話では、芦原の中つ国に降臨する神は

「言向和平」(ことむけ やわす)ものだった。高天原で

は八百万の神が相談していた。唯一神が十戒を授け

てこれが善だと決めつけるようなことはなかった。後段

で見るようにヤハベは最も忠実な僕シモベのヨブの申

し立てなど一切聞く耳を持たない「おれが造物主の神

だ、文句あるか。」で済ませてしまう。日本のアマテラス

はそうはできなかったろう。大和朝廷が成立しての十

七条憲法も「一人できめるな。話し合え」だった。日本

では専制君主や独裁者がこれが正義だと一方的には

決められない社会なのである。何が善か何が正義か

は伝統的事例である先例や世間の習いか関係者の話

し合いで決まる。日本では話し合い、皆の意見、世間

の評価が力を持つ。この合議制はよいとこもあるが、

……でもある。でも、世間がうるさいのは日本だけでは

ないのである。イギリス人のミルは『自由論』に社会の

非公式の圧力に抗する個人の個性尊重を説いて、「ヨ

ーロッパ諸国に比べると、英国では世論によるくびきは

おそらくずっと強い、云々」と書いている。それは、デモ

クラシーの到来によって、いっそう強められ激しさをま

す傾向にあった社会的な圧力であるので、世評はデモ

クラシーの一形式なのである。また、アメリカ映画の『イ

ージー・ライダー』は南部の田舎の社会が都会の若者

の生態へ反感を抱いて、弾丸を放った幕切れだった。

いつまでも恥の話が始まらないと気を揉んでいたら、

誠の話から、自重に移り、その後で恥の問題に及ん

だ。その話の展開が曖昧である。まず、自重を「自らを

重んじること」と解釈しているがこれは意味がはずれて

いる。また日本人は人から非難されるようなことをしな

いことだと考えていると書いている。自重とは行動を謹

むこと、自己規制、自己管理と言ってよい。これは軽薄

な行動によるトラブルを避けようとすることだ。そして、

恩恵を施すことはよいことだが恩恵を受ける人が「恩

を着せられた」と思わせるのは用心しなければならな

いと書いている。が、このルース女史の書き方では事

情が理解で きない。それは室町から戦国の中世の時

代の日本人はとても名誉を重んじていた。この時代は

まだ公的民事刑事裁判制度が確立されていない、自

力救済習慣が行き届いていた社会であった。みな自存

自立して生きている。恩を着せる、むやみに他人を助

けることは助けられた方はお前は自立力に欠けている

と思われたに等しいので、恥をかかされたと感じるの

である。皆一人前だとの誇りをもって生きていた時代

だ。現代日本人も同じである。身内からの贈りものは

互恵共同体内で財を贈答しているのに等しい。でも他

人からは易々とは金品をもらう気にはならない。乞食

物乞いではないと自負があるからである。だからここ

の話の展開は恩を施すにも慎重にしないと名誉を傷つ

けることになるという、誠の話題から名誉に関する話に

転じているのである。そしてさらに「世間がうるさいから

自重しなければならない。世間というものがないなら自

重しなくてもよいのだが」と続く。これは何を言っている

かというと、世間体の話が出てきた。世間での評判で

ある。あの家は義理を欠いていると評判になれば付き

合いが悪いと評価されたのである。世評があるから慎

重に振る舞う。ないなら気ままだとの意味である。これ

も名誉を気にしている話である。この後に「日本人は時

によっては自分の罪の深さにピューリタンにも引けを取

らない反応を引き起こすことがある」と書いている。こ

こで罪の話題に転じた。そして「日本人は罪の重大さよ

り恥の重大さに重きを置いているのである」とつづく。

これは日本人が世評を落とさないように自重して、恥を

かかないように気にしている話を、罪業についても恥を

気にしているとの錯覚を起こすような話のつながりにな

っている。これは名誉の話題の中にふいに罪の話題を

混同させて、罪に恥と感じると思わせるような展開にな

っている。これは話題のすり替えの詭弁である。そして

恥を基調とする文化、罪を基調とする文化と二つに分

ける。罪を恥としか感じない人間は日本人しかいない

のなら、それを二大文化圏のように扱って下さったの

は過分な待遇でカタジケナイことであるが(笑)。しかし

欧米を罪の文化日本を恥の文化と規定して、罪の文

化では告白によって罪悪感を軽減できるが、恥の文化

では告白は世間の前に露見するようなことだから、黙

っていれば思い煩う必要はないと、奇妙な論理展開を

したが、それは、恥の文化では露見しなければ患いは

ないのだから、露見しない条件のもとでは犯罪に陥り

やすいと推論させるための企タクラみだっだ。正に悪ら

つな詭弁の展開である。罪悪感とはその人物が属する

社会で慣例として罪と定められている事柄を犯した時

に感じるものであり、恥とは名誉が損なわれた時の感

情である。罪を犯すと相手に対して罪悪感を抱き、禁

(タブー)とされていることを犯した卑怯な不名誉な自

分に対して恥と感じる。名誉が損なわれ恥と感じても

罪悪感を抱くことはない。欧米人の罪悪に対する反応

と日本人の名誉に対する反応を混在並記して日本人

が罪に恥しか感じないと思い込ませようとした。日本人

の名誉への反応と欧米人の罪悪への反応を対称的に

扱うのはルースの策略である。日本人が名誉に敏感な

ことから、しばしば恥の感情を抱くのを利用した。

中世人は自存自立して生きていたと云ったが、一匹狼

では生きていけないので各々グループに加わってい

た。その中で名誉を守っている。例えば、当時の主君

は己の家臣でも名誉をひどく傷つけると謀反の仕返し

を受けた。あの明智光秀が本能寺に夜討ちをかけた

のも私怨からといわれている。わたしはまさか私怨で

はあるまいと思っていたが、中世人の名誉観を知った

今はそれが大きかったのかなと思っています。

7 アメリカと日本の文化の型

また、アメリカに留学した女学生の体験は前に述べた

横井小楠の甥の左平太や夏目漱石の体験とさして変

わらないだろう。左平太は書簡にしたためている「一切

義理を重んじない。却って義をもって愚という」と。名誉

を重んじる日本人は互いの名誉がぶつからないよう

に、交際の礼儀・掟である義理を練り上げてきた。他国では馬鹿馬鹿しいと思えるものだったのかもしれない。

ルース女史等の「われわれアメリカ人には慣れっこに

なっている遠慮なく打ち解けて人と接する態度」を『菊

と刀』風に嫌みッたらしくいうと「ただ我が利益の交わり

をするのみ」で、人間関係をビジネスライクに処理して

いるにすぎないのである。中国の上流女学生が王者

のごとき趣があると述べられているのは儒教王朝文化

のせいだろう。日頃召し使いに架し憑かれている身分

だろうから、富の階層社会ではよくマッチングする。日

本の女学生といえば老子のような謙譲文化だからだ。

アメリカと中国の文化の型は近いと言えよう。アメリカ

はローマ的である。中国の王朝制度と人の気質も合っ

ているようだ。中国の倫理上の要請は日本ではついぞ

受け入れられなかった。と、仁を持ち上げる。まるで中

国政治が日本より人道的だったとでもいいたそうな口

振りである。そして左翼の学者なのだろう、偉大な朝河

貫一と持ち上げて「天皇制と相容れなかった」とのセリ

フを引用している。日本は西洋の最後の手段、革命を

用いなかったとも書いている。イギリスではチャールズ

一世が処刑され、フランス革命、ロシア革命が起った。

フランスを中心に中国文化が伝わったので、中国の易

姓革命思想が影響しているのかもしれない。イギリス

の十七世紀には暴君殺害理論、神の裁可による力に

よる抵抗権論などが現れているのは易姓革命そのも

のだ。西欧と中国とに比べ、王殺しをしなかった日本

は文化の型が違うのである。西欧・中国の革命と日本

の明治維新を比べると、取替え・交換であらたまる文

化と洗い清め・組み直しであらたまる文化と言えよう。

8 無償の愛

日本の小説・演劇・映画はハッピーエンドで終わるもの

は少ないと書いている。戦争映画でもみすぼらしい戦

場場面ばかりで勝利感もないが、反戦思想を抱くよう

にはならないから政府に気にされていないと書いてい

る。?…、おしゃべりルース、調子にのり過ぎてへまを

やったな。欧米のハッピーエンド映画はこんな構成だっ

たのか。「アメリカの一般大衆は解決を熱望する。劇中

の人物がいつまでも幸福に暮らすようになると信じた

がる。劇中の人物がその徳行の報いを受けることを知

りたがる」。そうか!ハッピーエンドとは徳行の報いだ

ったのか。ルースは『菊と刀』の嘘を長々と書き過ぎ

て、頭が惚けてたのか、口を滑らせてしまった。それな

ら無償の愛ではなく対価を求めているのではないか。

日本の映画はこんな風にできている。~~夫の役者と

しての天分を磨かせるために一身を捧げた妻が、いよ

いよ夫の成功を前にして大都会の中に身を引いて妻

の身分を隠す。そして夫の大成功の当日に貧困のな

かに一言も不平を漏らさずに死んでいく。~~ 日本

映画の妻は夫のために奉仕の報いを受けることを拒

む。日本人は恩を尽くし報恩を求めないで、捧げ尽くす

その純な心に打たれて涙する。アメリカ人はこれでは

満足しないのである。ルースはアメリカ人は無償の愛

で、恩と報恩の贈答でもなく、債務契約でもないと自賛

していた。今ここではアメリカ人には徳行(恵み)の反

対給付が必要だといっている。それじゃ、アメリカ人の

人間関係は契約ではないか。そうだアメリカ人は神とも

契約を結んでいる。それは信仰も神の反対給付を求め

るからだ。一例に『ヨブ記』にもそれが現れる。『ヨブ記』

ではヤハベ神と悪魔が賭けをする。悪魔が語りかけ

た。神よ、人の信仰はあなたが恵みを与えられている

からです。恵みを取り去ればあなた様の柔順な僕、義

人ヨブも信仰を捨てるでしょう、と。ヤハベは賭けをさ

れ、ヨブから家畜、財宝、兄弟同胞をすべて奪われ、ヨ

ブには腫れ物の病を与えられた。困窮・疫病に陥れら

れた義人ヨブは友人にも隠れた罪の在り処を責められ

るが、独り立ち上がり神に問いかけて無罪を申し立て

る。苦難を訴えかける。ヤハベはつむじ風のなかでヨ

ブの前に姿を表わし、全能の創造者として振るまう。神

のまえにヨブは圧倒されて「御覧下さい、私はつまらな

いものです。何といってあなたにお答えできましょう。

わが手をわが口にあてがうばかりです。一度申しまし

たが二度とは申しません。これ以上は続けません」と。

ヤハベはヨブの降伏を無視しさらに畳み掛けて問う

「君はわたしの公義を否定し、自分を義とするために、

わたしを非とするのか」。ヨブは神の力をまじかに見

て、全能者に信服し、神の意志を受け入れて恭順し

「塵灰 になって滅びましょう」という。さらに「わたしは

分かりました。あなたは何事もおできになり、あなたの

どんな決意もはばまれることはありません。あなたは

云われた『知りもしないのに、私の計画を覆い隠すも

のは誰か。』まことにわたしは分かってもいないことを

いい、あまりにも不思議で、分かりもしなかったことに

ついて申しました。…わたしはあなたについて噂では

聞いていましたが、今わたしの目があなたを見ました。

それゆえに、へりくだり、灰塵の中で悔い改めます。」

と。日本人が『ヨブ記』を書けばここで終わる。神への

信仰を取り戻し、そのまま死んでいく。ところがアメリカ

人が書いたのか『ヨブ記』は違う。この時、運命は反転

しヨブへの災いは消え 恩寵が降り注ぐ。ヤハベはヨブ

のすべての所有物を二倍に増やし、七人の息子と三

人の娘を与えた。ヨブの娘ほど美しいものはいなかっ

た。ヨブは百四十年を生き、孫を四代に渡るまで見届

け、日々満ち足りて年老いて死んだ、となる。ヨブの信

仰契約は財産も寿命も二倍返しの報いを得たのであ

る。

蟹は自らの甲羅に合わせて穴を掘るという。ルースは

日本を貶めようと嘘を書いていたが、創作のつもりが

自画像を写していた。彼女の魂は「我が利益の交わり

をするのみ」で、損得勘定が人間関係の唯一のものに

なった。そんな社会では名誉のための義理などは無用

な愚にしか見えない。ルースよ、汝の魂を写したのなら

『菊と刀』では不都合だ。私が名付けてあげよう。『サボ

テンとライフル』ではイカンか。

9 日本的なるもの

日本の“皆の意見”即ち合議制は、太古のキャンプファ

イアー民主主義が生き残っているからのように見える。

(近世まで農村には“結い”の共同体があった。)恩、義

理などの人間関係も太古の互恵共同体の濃密な人間

関係から来ているのでしょう。アメリカのフランク(率

直)な態度はビジネスライクなもので契約社会が生み

出したと推測できる。アメリカは移民の国ですからもと

もとは赤の他人の集まりで社会をつくると、共同体と他

の共同体の物々交換の原理である取り引き契約が人

間関係のもとになったのは当然だったかもしれない。

でも、すでにヨーロッパでも契約関係が主になっている

のを欧州民話「カエルの王様」「赤頭巾ちゃん」等々で

確認できる【追記】。欧州の国の中では宮廷で話されて

いた言葉と民衆の言葉が異なっていた時代がある。征

服王朝の国では社会の上層部と下層部は異なる共同

体の取り引き関係になるのであろうから政治も契約的

支配になるだろう。それは大衆社会関係にも波及し

た。日本は大和朝廷形成期を写していると思われる神

話『日本書紀』には降臨は「言向和平」(ことむけ やわ

す)すものだった。言葉は通じているようだ。武力一辺

倒の征服ではなく“話し合い”も伴っていた。大和の征

服者ヤマトタケルは造鉄技術をもたらした帰化人と在

来王家との混血の末裔で、鉄剣(草薙の剣)を振う者

だった。弥生人は縄文人と共生した遺跡がある。山口

県土井ケ浜遺跡の弥生時代前期末の人骨の二百体

は明らかに縄文人とは異なる特徴をもつ顔をした人骨

であった。一方、西北九州や南九州の弥生遺跡から出

土する人骨は、縄文人とよく似ていた。また、土井ケ浜

遺跡でも、縄文人の子孫の顔つきの人骨と渡来系の

人骨が一緒に埋葬された墓もあった。この発掘結果を

考えると、大陸や半島からの渡来人が縄文人と同居

し、次第に混血し弥生人となっていったのではないか。

日本では新来の征服者が先住民を武力支配して建国

したのではなく。新来の人・文化を取入れた部族の王

が支配を広げて国をなした。混血民族の共同体が拡

大して領域国家になったので、日本は互恵共同体の

慣習を他国と比べてより多く継承した国になった。これ

は日本的なるものである。しかし、現代社会の高度に

複雑化した社会で、太古の単一的な社会に習うことは

できない。平等を押し進めた共産主義は奇怪な権力を

生み出した。人間関係も契約を基本としなければ互恵

では成り立たない。ただ互恵・恩愛には母親の恵みの

ような無償性の要素がある。恵みの反対給付を放念す

る精神は高次の人間関係の形式である。それがなくな

れば、教授は公給を受け取っているのであり、奨学金

は完済したから、契約は終わっていると母校に寄付す

る人はいなくなるだろう。非ハッピーエンドの映画に涙

する人もいなくなるだろう。特攻機が晴天に飛び立つこ

ともなかったでしょう。

10 おわりに

『菊と刀』で見るべき主要な話はこれだけか。誠の話題

から罪と恥の話題に進んだことはこの書のなかのふた

つの魂を比べるのに好都合だった。罪と恥の話では犯

罪と名誉のすり替えの詭弁で日本の魂を貶める、そん

な詭弁を弄する魂が不誠なのである。『菊と刀』にはこ

んなことも書いてある。革命を起こしたことがない日本

の国が方針を一変して西洋諸国の本領とする分野(軍

事力のことを指しているのだろう)に競争するようにな

ろうとは全く思いもよらぬことであった。日本の遅れ

た、そして階層制度に押しひしがれていた民衆は急展

開してあたらしい進路に切り替えた。また、まだ戦闘力

が破砕されていないのに降伏を受諾するという法外な

代価を自らに要求する能力を用いたのである、と。そう

だ。予想もできなかったことに明治維新は進展し、国際

連盟の常任理事国に上り詰めた。尊大にもアメリカの

カースト制国際階層支配を脅かす有色諸国民の平等

条約の提案までした。対日戦争を仕掛けたが戦は長

引き特攻の洗礼をあびた。年少期の躾でトラウマにな

っている神の劫火よろしく焼夷弾と核で焼き殺し、民族

浄化でアメリカインディアン並の少数民族にしようとし

たが、またぞろ意外に詔のひとつで日本は矛を納め、

生き延びらせてしまった。この宇宙でこの東洋で遭遇

した魂は滅ぼされねばならない。そのためにこの支離

滅裂な本を書いた。日本の美点の評価は一行もない。

それだけ憎しみが激しいのだろう。また恐怖している

のだ。日本を辱めようとした論理の剣ツルギは刃こぼ

れして菊柄は切断できなかった。無惨な文献の死骸を

さらしているが、左翼が自虐史観の助けにしようと祭り

上げている。ルースよ、教えてあげよう。な ぜ陰謀渦

巻く政治動乱で明治維新は成し遂げられたかを。誠の

魂が最後に人々を結び付けるからである。なぜ特攻機

は晴天に飛び立ったかを。穢れのない魂が報いを求

めないからである。なぜ詔ひとつで戦いが已んだか

を。皇祖皇宗の大御心が真実であるのを知っているか

らである。所詮、邪悪な魂には不可知であろうが。


「カースト制国際階層支配」「アメリカインディアン並の

少数民族にしようとした」は過激な表現と非難されそう

だが、そうではない。進化論も援用して肌の色(=生ま

れた種族)に人類を優劣付け、植民地産業経済で職も

規定したのはカーストそのものだ。また、「日本人は四

つの島に閉じ込め、行く行く滅ぼしてしまう」と公言され

ていた。欧米には選民思想・民族浄化思想が厳存した

のである。

余話
ルース女史の伝記物語が出ているそうだ。女史は同じ

文化人類学者のマーガレッド・ミードと同性愛感情をも

っていて、不安定な心理に悩んでいたそうだ。学会の

閉鎖性と男性研究者の偏見中傷に苦しんでいた。自ら

を「逸脱者」と自覚していたのだから、実情は理想的に

描いたアメリカ社会に溶け込めないでいた。社交もうま

くいっていないのだ。そんな人物が義理に付いて論じ

るのだから悪印象しか持たない。何だかね~。こんな

人物が『菊と刀』を書いたとは。日本の性文化の奔放

性に触れているが、キリスト教の「性の罪悪感」文化の

なかで「アメリカ人の良心がいかに罪の意識に悩んで

いるか云々」とは自身のことか。アメリカでも男中心の

習慣はヨーロッパの旧世界から絶縁されていない。独

立宣言の精神から程遠い「社会的制約と闘っていた」

のだそうだ。所詮プロパガンダで学術論文ではない

が、そのアメリカを平等自由の国と言い張るのは、日

本を落としめるためとはいえ、人間社会が理想的理論

通りにいかないのはよくあることで顧みて葛藤がありそ

うなものを。

結局、ルースの自由平等思想はピューリタンの信条か

ら来ているのだ。彼女が目の敵にした「各人が自分に

ふさわしい位置を占める」とはピューリタン革命以前の

ヨーロッパの神を頂点とする有機体階層社会の観念で

ある。カトリックの教理は霊的なるもの教皇権が世俗

的なるもの王権より上位の階層的秩序で、教会、国

王、封建領主、主人、父、等々の権威への服従に民衆

を位置付けるものだった。固定した階層身分分際を超

えることは貪欲と非難される。しかし、ピューリタン信仰

では神と個人が直結して各自平等な人間になる。対等

となった個人は既存の階層秩序の共同体から離れて

自由になる。自由になって新たな契約で、個人主義的

社会関係を結ぶ。それが17世紀西欧の社会契約思想

である。日本では互恵共同体の人間関係である恩や

義理が残っていた。それが、天皇の詔の権威、特攻精

神、非ハッピーエンドの物語に出現する。個人主義化

し契約社会になった魂と対称をなしている日本の魂が

遭遇したのである。それをルースは自分達の中世の宗

教的階級共同体秩序“ふさわしい地位”の説教として、

故意でなければあるいは誤認した。“各々その所を得

る”には階級的ふさわしい位置の意味はないのである

が、自己の歴史を投影してしまったのである。ルース

は親にあやまった躾をされて根性がひん曲がった人間

になってしまった。哀れな人間と言えよう。それでも日

本を貶める“業績”を残したのだから、同情してはいら

れないのだ。

「誠」は欧米語では「良心」が適訳ではないだろうか。

「よこしまでない心」で共通していると思われる。「内面

の良心の自由」と常用されるが、これは「内面の信念

が妨げられないこと」だろうから、「内心の誠」といえば

も「内面の真実」である。ただし、誠に比べ優越感が感

じられる。「内面の良心の自由」は私の良心は妨げら

れないというのだから、妨げる相手は悪心と見られる。

日本では国歌を歌わないことが「内面の良心の自由」

と主張されている。歌うものは良心に欠けていると見な

されている。

、【追記】
恩と契約の民話

カエルの王様(グリム童話)

森の中でお姫様は井戸に腰掛けてボール遊びをして

います。するとボールが手からこぼれて井戸の中に落

ちてしまいました。お姫様が泣いているとカエルが出て

きて言います。拾ってきてあげましょう。そしたら友達に

なってくれますか。一緒の小皿で食事をしてくれます

か。すてきな ベッドで一緒に寝てくれますか。お姫様が

約束するとカエルはボールを持ってきました。しかし、

お姫様は約束をすっかり忘れてしまってお城に返って

しまいます。カエルがお姫様は嘘つきと鳴いていると、

王様がそれを聞いてお姫様に約束を守るように言いま

す。お姫様はいやいやながら約束通りにしますと、カエ

ルは王子様に変わりましたので、二人はめでたく結婚

しました。

これは契約の民話である。カエルは人間世界の異類で

あるので、よそ者、外来者をあらわしていると解釈され

ている。浦島太郎のカメも鶴の恩返しの鶴もおなじであ

る。お姫様がこまっているとカエルが助ける・恵みを施

す話であるが、カエルは条件を出している。反対給付

を求めるのであるから契約が生じる。ところがお姫様

は契約を履行しなかった。父の王様に諭されて約束を

果たすと更なる幸福が手に入る。浦島太郎や鶴の恩

返しでは人間が異類・外来者を助けるのである。が、

その時点で約束は結んでいない。無契約で一方的に

恵みを施すのであるから恩愛をかけたのである。それ

に応えてカメと鶴は恩返しをする。ところが今度 は乙

姫様は玉手箱を開けないように、鶴は機織りの時姿を

見ないようにと条件をつけている。外来者は契約を結

んだのだ。人間が契約をやぶって玉手箱を開け、姿をのぞいた時に給付制限条項に抵触し契約は終了、恩

返しは終わる。日本の民話では共同体内の人間は外

来者に共同体内の恵み・恩愛をかけ、外来者は共同

体外の恵み・契約で応じたことになる。(浦島太郎の変

形話では玉手箱から宝物が出てくる話になっているも

のがある。これは恩に報恩で応じた型になる。)

ルースは日本は革命が起こらないと貶しているがヨー

ロッパ・中国も王と臣民は契約関係でとらえられている

ようだ。王は臣民を守る義務がある。そんな王は王た

る位を得る。暴君や戦争に負けた王は王たる義務を果

たせないので革命で取り替える、また廃止するのであ

る。ヨーロッパ・中国では征服王朝なので異なる共同体

の間の関係である契約支配になるのだろう。しかし、日

本では天皇は歴代王たり得たのはなぜか。大東亜戦

争では負けたが戦後の天皇の御幸は民に迎えられた

のは契約関係でないと推測される。日本の皇室は例

外的に百済の妃を迎えることがあったが列島内の豪

族貴族と婚姻を重ねてきた。ヨーロッパでは王国間の

王族同士で婚姻する。臣民とは出自が異なることから

支配権がうまれるのである。人類は同胞ハラカラは対

等との観念をもっているので、対等の人間同士では支

配権は成り立たない。それを考えると天皇は微妙な立

場に立っている。婚姻で臣民と近づきすぎても権威を

失う。遠すぎると契約関係になる。それだから現在の

皇室には戦前のような数の宮家が必要になるのだ。皇

室が契約支配でないとすると親権支配と観念されてき

た。皇室は日本民族の神代に及ぶ旧き尊い本家と観

念されて親権で成り立ってきたのでしょう。少々問題が

ある親でも親は親でやすやすとは縁を切れない。親の

子に対する保護は恩愛で、ア・プリオリなもので、契約

を結んで成り立っているものではないところに皇室の

永遠性がうまれている。

菊と刀 おわり

2009年11月 5日 (木)

邪馬台国と女王国

1 倭人とは
日本の古代に踏み込むと邪馬台国に触れるのを避け

ることができない。でも私は考古学にも『日本書紀』な

どにも通じていないので説を立てることなど とてもおぼ

つかない。それでいくらか邪馬台国文献を読んでこれ

はと言えるものを見つけた。新垣篤志氏の「邪馬台国

沖縄説」と富田徹郎氏の「卑弥呼北九州降臨説」を継

承統合して考えてみた。では『魏志倭人伝』を読んでみ

よう。著者の陳寿は倭人にまつわる複数の資料からこ

の倭人伝を著しているようだ。漢文の文献ではよくある

記述形式である。

「倭人は帶方の東南の大海の中にあり、山島に依りて

国をなす。旧百余国。漢の時、朝見する者あり。今は

使いを通ずる所三十国。」

このような文章が冒頭に置かれている。倭人を定義し

て、海中の島島に居住している者たちで中国と朝貢外

交で通じているという。中国の地理は西の山地から東

に平野が広がり海に終わる地形であるが、その海の中

にも島々があり人が住んでいる。その種族は倭人と呼

ばれる。これが中国人一般の認識であった。その倭人

の地理を訪ね、文化風習を調べ、歴史を記述したのが

『魏志倭人伝』である。

2 邪馬台国への道
つぎに地理の記述が始まる。いちいち引用すると煩雑

なので要約して話を進めよう。倭に至るには、韓半島を

南に下り、對馬国(対島)に至り、また南に一大国(壱

岐)に至り、海を渡って、末廬国(松浦半島)に至り、東

南して伊都国(糸島半島)に至る。みな女王の国に従

属し、中国からの官吏が往来して留まると書いてい

る。この女王とは卑弥呼を指すだろう。国の名前は()

内の現代の地名から推測がつく、国のさまの描写も現

実の地勢に合う。さらに続けて、「東南のかた奴国(福

岡には那ナの津の地名がある)に至ること百里。…二

萬余戸有り。東行して不弥国(福岡の東よりに宇美が

ある)に至ること百里。…千余の家有り。」とあるが、こ

こまでは地名の推察が付く、足跡をたどることができる

のである。しかし、そのあとは道程の推測が立たなくな

る。『魏志倭人伝』は次ぎのように記述する「南のかた

投馬国に至ること水行二十日。…五萬余戸ばかり有

り。南し、邪馬壹国に至る。女王の都する所なり。水行

十日、陸行一月なり。…七萬余戸有り。」このような行

程をたどり、ついに邪馬台国に到達するのだが。水行

二十日にして投馬国、水行十日、陸行一月して邪馬台

国と一度に道程距離が大幅なになった。そして投馬国

とは実際の地理上の推測がつかないのである。不彌

国(宇美)までは跡を追えるのに、ここから水行すると

いっても宇美の地は内陸に入っているので水伝いに進

めないのである。「水行」は前にも出たが、「海岸に循

って水行」とあるので舟で海岸伝いに航海することであ

る。海岸を離れる時は「海を渡る」と記述している。内

陸に入っているから川を舟で上るのかと考えても福岡

に那珂川があり、また宇美よりずっと東には遠賀川も

あるが中国の黄河や長江のように南に三十日間も逆

のぼるのはできないのだ。こうして急に現実の地理か

ら曖昧になるのはまえに「中国からの官吏が往来して

留まると」書いている九州の北沿岸地域までは視察に

来てよく知られていた。でも内陸部までは訪ねていな

いと言うことか。実は福岡北部の南にはヤマトなる地

名が「山門」と漢字を当てて現代もあるのである。中国

からの使者は当時それを知っていたのか知らなかった

のか、九州北部からさらに南に水行二十日・十日の長

行程をへて邪馬台国に至ると記した。このヤマトを富

田徹郎氏の説に従って甘木と想定してみると福岡から

直線距離にして40キロある。九州に松浦半島から上

陸したとすると福岡に着くまでに馬に乗らなければすで

に直線で45キロは歩いている。(倭国には馬がいない

と倭人伝に出てくる。)昔の人はよく歩いたのだろうが、

わたしは福岡から唐津まで車で通うけれども とても歩

いて往復しようとは思わない。官吏が留まる伊都国ま

で行くのも30キロはある。福岡(不弥国)から、さらに

南に女王の国があると告げられてもこの行程記を綴っ

た使者は訪ねなかったのかもしれない。公文書か何か

届け物などの用件があれば別だろう。『魏志倭人伝』

はこのように訪ねる途中から行く先が不明になり、訪

ねる先の国は女王の国で、その国に戦争と平和のドラ

マもある。こんなところが古代史の中でも特別なロマン

を醸し出す。 

想うに、ここの地理の記述は不弥国までの行程で終わ

っていて、新しく段落がはじまり「九州北部から海岸沿

いに南に二十日で投馬国に至り。さらに十日、海岸沿

いに南下して、陸にあがり一月歩いて邪馬台国に出

る。」と云いたいのだろう。(しかし、日本の現実の地理

など知らない一般の中国人は不弥国から即南に水行

と読んで疑問は抱かない。)加えて「郡より女王国に至

ること萬二千余里。」なる記述が続く。郡は中国の使者

の出発地点である。邪馬台国はそれから萬二千余里

であるが、この距離はどんな意味を持つのか。九州北

部からいかほどの距離か? さらにこんな記述に突き

当たる「その道の里を計ると、正に会稽東治の東にあ

る」と。現実の地理上でこの会稽東治の東には沖縄諸

島がある。そうであるので、驚くべきことに『魏志倭人

伝』は現実の地理上では邪馬台国を北部九州から南

に下った沖縄に位置せしめているのである。

3 漢文における数字
この萬二千余里は実数ではないだろう。漢文では数字

は修辞句・慣用句として出てくることが多い。この数字

は同じ東夷伝のなかの北方遊牧騎馬民族・鮮卑の東

西の距離となぜか等しい。その南北は七千余なのであ

る。その七千余里を群(現代のソウル)から半島の南

端までの距離にまた当てている。邪馬台国までの距離

の半数を超える所まで半島の南端ですでに迫っている

のである。それで、さらに南に水行全三十日の長距離

を踏破して邪馬台国に着くでは間延びしている。この

疑問を解こうと様々な工夫がなされている。短里説。ま

た放射線状に記されているという説。しかし、漢文では

そんなに難しく考えないでもよいと思う。国々の戸数や

行程距離数も厳密に調査したものではないだろう。例

えば、壱岐と対馬を四方三百余里と四方四百余里とほ

とんど等しい大きさにしている。「百余国」なども百の国

があるのではなく、たくさんの国の意味である。百姓な

どもおなじ用法だ。中国は春秋時代は百の国があった

が合して三十ヶ国になり、今は六ヶ国になったと、どこ

かで書かれていたのを読んだことがある。実数は戦国

末の六ヶ国で、百から三十は減少する過程を表わす

慣用句である。例えば、三千も非常に多いの意味で使

われる。孔子は三千人の弟子がいたと伝わる。竹林の

七賢の一人、ケイ康が処刑されようとした時、減刑を願

い出た書生の数も三千人である。三千の兵を率いて出

陣したなどの記述もある。白髪三千丈ももちろん慣用

句である。少ないを現すのは三である。子供が三歳で

父を失ったなどの表現があちこちにあるが皆三歳で死

ぬわけはなくそれは幼少時の意味である。『史記』は伯

起が40万の捕虜を生き埋めにしたと書いている。40

万人をどんな方法で生き埋めにできるのか分からな

い。また、始皇帝は30万の兵を匈奴討伐のために発

したとも書いている。長江から黄河にまたがる大帝国

を築いた始皇帝なら30万40万の兵を動かせたかもし

れない。信じてよい話かもしれない。しかし、殷の紂王

が70万の兵を発したと書いているのを信じてよいだろ

うか。紂王の時代は戦国時代の前であり、春秋時代の

前であり、周王朝の前である。時代は750年ばかりさか

のぼり、紀元前1023年の頃である。古代ギリシャの強

国スパルタは前800年頃成立、最強期40万人の規模

だった。歴史時代ばかりではない。近現代においても

日中戦争の中国側の戦死者数は時がたつほどに膨ら

んでくる。伯起の件も数百人数千人を生き埋めにした

のかもしれない。数千人を生き埋めにするのも大変な

ことだ。その数が時がたつほどに膨らんで40万人にな

った。文化大革命の時も信じ難い数字が飛びかってい

た。こんな話をしていたらきりがない。だから、萬二千

余里は非常に遠いと云っているに過ぎない。南に水行

全三十日も半島のすぐ南の九州北部から会稽東治の

東の距離に割り当てたおおまかな日数であろう。

漢文の解釈の問題を付け加えると、「その道里を計る

に、」以下は普通は「当に会稽東治の東にあるべし。」

と再読文字に解釈して推量とされているが「当に」は当

然と解する断定の意味にも解釈できる。推量と解した

がるのは邪馬台国が沖縄ではあるはずがないとの願

望から、倭人伝著述者の思い込みと解釈しようとする

潜在意識の現れだろう。しかしそれではいけない、ま

ず倭人伝著述者の記述を記述通りに読み取らなけれ

ばいけない。沖縄などではあるはずはない願望のため

に南を東の誤記と読み替えて、行く手を畿内に曲げて

はいけない。記述通りに読んで、でもその記述からは

矛盾が生じるから、正しくはこうではないかと主張すべ

きである。南が誤記でないのはすぐ後の記事から明ら

かになる。

4 南と北の倭人の国
萬二千余里のあと「男子は貴人下人と別なく、皆黥面

文身する。」とつづくのは、これからは沖縄の情報が記

述される。「夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪

文身して蛟龍の害を避く。」と政治神話を引いて沖縄と

おなじく亜熱帯の中国の南方の会稽の風習をのべる。

『荘子』にも北方の殷王朝の王冠が南方の黥面文身

の風俗では無用の長物であるとの説話がある。邪馬

台国の倭人の黥面文身の風俗は南方中国の会稽と

同じだと云っている、即ち邪馬台国は会稽東治の東に

あると云いたいのである。つづけて「その風俗は淫らな

らず。男子は皆冠はかぶらない、木綿を以て頭からか

ぶり、その衣はただ結んでいるだけで、ほぼ縫うことな

し。 婦人も髪をたらして束ねているだけだ。衣もまん中

を穿ち、頭を貫きている。 稲と麻を種える。蚕に桑を食

させて、絹糸綿糸を紡ぐ。 この地には牛、馬、虎、豹、

羊、鵲いない。」これは引き続いて沖縄のことを記述し

たのだろうが、沖縄に牛、馬はいなかったのか不可解

でもある。北九州邪馬台国説でも九州にはいるはずだ

と、問題になっている。冠がないことと衣服の形式はは

大陸風ではなく、服は南米のインディオのものに似て

いる。 つづいて「兵器には矛・盾・木弓を用いる。木弓

は下を短く上を長くし、竹あるいは鉄、あるいは骨の矢

じりあり。」とあるのは「木弓は下を短く上を長くし」てい

るのは北方の騎馬民族の弓の形式であるので沖縄に

そんな弓があったのか?(異説では南方の弓が下が

短く上が長いのだという。??私にはどちらが正しい

のか判定する力がない。)兵器に付いて書くのは北部

九州の軍事の記事が記されていると思われるのだが。

神戸市立博物館所蔵の兵庫県桜ヶ丘遺跡出土の五

号銅鐸には鹿と弓をもった人物が描かれているが、上

の弦は下の弦の1.5倍の長さになっている。

さらに続く記述は沖縄の習俗だろう「倭の地は温暖で、

冬、夏、生菜を食す。皆裸足なり。 家は各々あり親と

子は別々に寝る。朱丹をその身体に塗る、中国の粉を

用いるのと同じだ。食飲には竹の器を用い、手で食う。

死ぬと棺に入れるが槨(外わく)は無く、土で冢を作る。

死ぬと、喪すること十余日。肉を食わず。喪主は哭泣

し、他人は歌舞し飲酒する。葬ると、家をあげて水中に

入り澡浴する。云々」。日本神道は禊ぎに水で身を洗う

のを儀礼とする。源流がここにあるのか。「 家は各々、

親と子は別々に寝る。」の原文は「屋室有り、父母兄弟

は臥息の處異にする」で、親と子が核家族のような形

で別々にいる。縄文弥生の縦穴住居は核家族の住ま

いである。中国での二世代三世代がひとつ家に住んで

いる大家族制度と異なるので注意を引いたのだろう。

また、植生の記事として冷温帯樹林のトチ。落葉樹 の

ボケ、 クヌギ、 カエデをあげているのは北九州には合

うが亜熱帯の沖縄の植生ではない。また、竹の種別に

篠竹が出てくるがこれは沖縄の在来種であるので、沖

縄と北部九州の記事が併記されていると思われる。

「 その会合席次には、父子男女別がない。人は酒を嗜

む。貴人に敬意をあらわす時はただ手を打つだけで、

ひざまずく仕草に当てている。人の寿命はあるいは百

年、あるいは八、九十年。」これも沖縄の風俗だろうが

縄文的風俗のようだ。百歳も長生きするのは空想的で

この記事は東方神仙信仰の理想化と解釈されている。

これも長生きを数字で表現したまでで数字にこだわる

必要はない。漢文の文献では百歳など驚くに当たらな

い表現なのである。そして沖縄人は今でも長寿であ

る。でも、これを1年の春と秋に二つ歳を取る算法で中

国の昔の習慣と同じだと説明する説もある。そんな習

慣があったのか私も長く漢文を読んできたがそんな説

は初耳です。『聖書』には長寿は120歳と記されてい

る。現に今でも世界での長寿者は120歳前後が限界で

ある。昔の人は50最前後で死ぬことが多かった。いわ

ゆる厄年はあるもので、それを乗り越えた長寿者は百

歳まで生きた人は昔からいたのでしょう。ですから、百

歳は長寿の意味に過ぎないのです。ともかく特別な理

想化と考える必要もないことです。

次の記事は「その風俗は…」と、改まっているから、別

の資料のはじまりで北部九州の倭国の描写と思う。前

の記述にも「尊卑差あり」と出ていたが、また「尊卑

各々差異あり」と重複した記述になっているのは異なる

資料だからと思われる。「その風俗は、国の貴人は皆

四、五人の婦がある。下人もあるいは二、三人の婦が

ある。婦人は淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟は少

ない。法を犯すと、軽い者はその妻子を没収し、重い

者は一家宗族を滅ぼす。尊卑各々差異あり、君臣の

別は守られているようだ。租賦を収め、その収蔵倉庫

がある。国ごとに市があり、物物交換し、偉い倭人が

監している。女王国の権勢の外域には、特に一大率を

置き、諸国を監視させている。諸国はこれを畏れてい

る。… 下人は貴人と道路に逢えば、ためらいがちに草

村に入り、話す時は、ひざまずいたり あるいは両手は

地につけて伏せ、恭しくする。(貴人の)返辞は『ああ』

という。同意した言い方のようだ。」身分格差の拡大、

税の取り立ては国家制度の進んだ社会である。大陸・

半島の文化の影響を受けて風俗・身分によるマナーは

沖縄の倭国とくらべて変化した。前の記事はその会合

席次には、父子男女別がないとしている。儒教の序列

の礼に異なるので注意を引いたのだろう。また「貴人に

敬意をあらわす時はただ手を打つだけで、ひざまずく

仕草に当てている。」とあるのは手を打って拝むような

仕草だろうか。後の記事はひざまずいたり、ひれ伏し

たりするので礼法がきびしくなった。礼法が変わったと

感じるのはひざまずく作法は日本的でないだろう。日

本は縦穴住居時代は土間、のちに床に敷物を敷いて

座る。そして囲炉裡を囲む生活が縄文時代から続いて

きたと思う。椅子の文化は立ち文化でもある。その時

はひざまずくが謙譲の意味を持つ。西欧に見る椅子に

座っている王様のまえで片膝付いたり両膝付いたりす

る仕草である。日本の場合正式な話は古来は座ってす

る。畳が普及してからは畳に座るのが普通だった。ひ

ざまずくは頭が高くなるので意味をなさないので、殿様

に話す時などは座って腰を折り頭を下げて手を付いて

話す。やむおえず偉い人のまえで立ち話をする時は腰

を折り手を膝に当てて頭を下げて話す。土下座もある

がこれは倭人伝に出てくるように大陸文化ではないだ

ろうか。腰を折って頭を下げるのが日本の本来の礼法

でそれは座っている時も通用する形式であるからだろ

う。畳の上での手を付きお辞儀するのは土下座とは違

う。ひざまずくは一時期、大陸の文化の影響を受けて

椅子に座っているか、または立っている貴人に対して

行われていたのだろう。現代の日本は沖縄倭人に戻っ

たようで神様にも手を打って頭を下げる礼の作法で、

仏壇でも手を合わせて頭を下げる。貴人(目上・上役)

にも頭を下げる作法である。天皇陛下の前でも最敬礼

までだろう。しかし中国では仏や祖先神のまえでひれ

伏す作法である。台湾の金美齢さんが子供の頃、お正

月には親の前で土下座しなければならないから嫌だっ

たと云っていた。(畳の上での手付きお辞儀とは違い、

椅子の文化で床にひれ伏す。)また、後の記事は貴人

と道端で会うと草むらに身を隠している。あのベートー

ベンがゲーテと連れ立っての散歩の途中、道の行く手

から貴族が歩いてきた。ゲーテは道を空けたがベート

ーベンはそのまままっすぐに進んだそうだ。そうすると

貴族が道を譲ったのか? また、貴人は皆四、五人の

婦がある。下人もあるいは二、三人の婦があると一夫

多妻制だが、考古学の知見によれば縄文時代は一部

地域を除いて一夫一妻制である。家族制度の枠組み

などは簡単には変化しにくいと思われるので、大陸半

島文化の強い影響を受けた北部九州の倭人の記事だ

ろう。

また「その国は本、男子を王としていた。七、八十年

間、倭国は乱れ、攻撃すること歴年におよび、そこで一

女子を立てて王となした。名を卑彌呼という。鬼道に事

え、能く衆人を惑わす。…宮室、楼観、城柵を厳かに設

け、常に兵を維持して守衛する。 」とある。 楼観、城

柵、厳かに設けは、北部九州の吉野ケ里遺跡をおも

わせる。大陸・半島の戦争文化である。縄文遺跡の三

内丸山遺跡は水掘りなどの軍事施設はないのが日本

の縄文の文化である。縄文文化を共有する沖縄もそう

であるだろう。卑弥呼は大陸・半島文化の影響の受け

た文明化された世界に生きていたが沖縄にいたら城

柵で守られる必要はなのではないか。約5500年前か

ら1500年間、縄文中期に栄えた巨大集落、三内丸山

の平和で持続する文明に代わる、大陸の征服統治す

る文明である。 以下、中国との外交や倭国の内乱の

話がつづくのはみな北部九州の情報であろう。

5 邪馬台国の輝き
記事の中ほどに、女王国より北はその戸数、道程は略

記できるが、その余の国は遠絶にして詳らかにできな

いと、以下のように21ヶ国名のみをあげている。

「次に斯馬国有り。次に己百支国有り。次に伊邪国有

り。次に都支国有り。次に彌奴国有り。次に好古都国

有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に對蘇国

あり。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇

奴国有り。次に鬼国有り。次に爲吾国有り。次に鬼奴

国有り。次に邪馬国有り。 次に躬臣国有り。次に巴利

国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国

有り。」

ここまでが女王の勢力の及ぶところであるとしている

が。この国々は沖縄倭人の情報ではないだろうか。

{この21カ国を奄美21諸島とするホームページがあ

る。もちろん奄美は沖縄の北にあるのだが、ここに沖

縄人の情報を取り上げて挿入した。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/denshou-kouko/#top  }
入れ墨の風習の記事の中で「昔よりこの国の使いは

中国へやってくると皆自分のことを太夫という。」とあ

り、中国の事情に通じていて太夫と名乗る者は沖縄人

で中国との貿易のための朝貢に赴いて、上の国々は

この沖縄人の国の属国だと伝えていたと想像すること

ができる。中国の東海にある沖縄は最初に中国人から

知られた倭国らしい。始皇帝に仙薬を採取すると願い

出て東海に船出した除福は沖縄を目指したのかもしれ

ない。始皇帝が築いた万里の長城は朝鮮半島にまで

は到っていない。漢の武帝の時に初めて半島に拠点

ができた。それで漢の時代には半島の南端の近海の

東南にさらに島々の国があるとの情報が中国人にもた

らされた。始皇帝以前の倭人情報は、沖縄産の宝貝

が殷墟から多量に出土としていること。さらに王充が『論衡』に

倭人が周王に薬草を献じたと出ている、この薬草は

亜熱帯の産物では沖縄の特産であり、九州南部のような緯度の高い所には

採れないもので、地理的要因から縄文時代の倭人とは思え

ない。この倭人は沖縄の倭人と思える。これらは紀元前千年

前からの中国と沖縄の交通を窺わせるものである。

また『漢書』の倭人の記事につぎのようにある。「東方

の蛮夷は天性が柔順である。他の三方向の外域の蛮

夷とは異なる。それで、孔子は中国に道徳が行われな

いのを悲しんで筏を海に浮かべて出ていこうとした。も

っともなことだ。さて、楽浪海中に倭人あり。云々」この

東方の倭人は柔順だとほめられている。わたしは倭人

が人偏であることに疑問をもっていた。中国人は普通

は外国人は動物、魚、虫、扱いして人偏など付けない

のである。倭には従順の意味がある。おとなしい、つつ

ましい、やさしい意味があるので、倭は敬称だったので

ある。それなら人偏をつけたことに納得がいく。このイ

メージはどこからくるのか。北方倭人の倭冦をイメージ

すると、こうはいかない。それは中国の東海にいた沖

縄の倭人が作り出したのではないだろうか。上に見た

沖縄人の風習の記録も好意的なものだった。中国人

は近海の東に倭人の山島があるのを知っていたから

邪馬台国が「当に会稽東治の東にある。」と断言でき

た。その倭人は外の蛮夷とは違い天性柔順と評判だ

った。これも孔子さまに配慮した儒教思想による美化と

捉えられているが、そんなに自虐しないでもよいではな

いですか。戦国時代バテレン僧侶が来た時も、幕末に

欧米人が来た時も日本人は他のアジアの国とは違うと

誉められている。倭人が誉められたのを否定する理由

がどこにある。孔子は漢の時代の3百年前の人だから

孔子が聞き知りえた天性従順な東夷倭人は漢代に知

られた半島の南端の近海の倭人ではありえないだろ

う。

上の21の国々が沖縄人の情報である意味は邪馬台

国は多くの属国を従えた強国であると宣伝したのであ

る。それで邪馬台国は沖縄人が名乗った。ヤマタイの

ヤマとは山でタイは台地即ち陸地で、海中の国ではあ

っても、山と陸地の広がる大きな国であるとの意味に

名付けた。「陸行一月」で、海岸から一ヶ月も内陸に歩

かないと邪馬台国には着けない。山=ヤマの発音は

縄文語系列のようだから沖縄倭人の使者が国名を“山

臺国”と書き示したのを中国人が“邪馬臺国”と書き直

したか? 中国人は最も古くから知っている東海にあ

る邪馬台国が倭人の国でもっとも大きく輝かしい国と

考えていたがゆえに、倭人の国々を束ねているとの噂

の卑弥呼は邪馬台国の女王とばかり、思っていた。そ

うして「邪馬台国に至る。女王の都する所なり。…七万

余戸有り。」と感慨を込めて書き記した。

(『魏志倭人伝』は邪馬台国を最も多い戸数で記してい

る。そして、後日の文献であるが『後漢書』倭伝には

「倭在韓東南大海中、依山嶋為居、凡百余国。自武帝

滅朝鮮、使駅通於漢者、三十許国、国皆称王、世世伝

統。其大倭王居邪馬臺国。」とあり、30国ばかりの国

が皆王を名乗っているがその中の大倭王が居るところ

が邪馬台国であると書いている。つまり倭人の大王国

が治めているから最強の国は邪馬台国であるとの認

識が後の時代でもあったことになる。また、朝貢外交で

は琉球は李氏朝鮮より格上の扱いだったそうだ。これ

も大国のイメージが残っていたからだろう。)

6 卑弥呼の幻の都
『魏志倭人伝』には九州北部の資料と沖縄の資料が混

ざっていると推測されるのであるが、九州北部にはヤ

マトなる地名がある。しかし『魏志倭人伝』には直接ヤ

マトなる国名は登場しない。ヤマタイと読めそうな近似

の名に混同されて用いられなかったのだろうか。卑弥

呼が“親魏倭王”と呼ばれるのは『倭人伝』に「詔書し

て倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑彌呼に制詔

す。」とあるので、倭人の女王と認められている。漢代

の奴国への金印は“漢委奴国王”で、倭人の国々の中

の一国、奴国の王と呼ばれた。卑弥呼は、30国ばか

りの倭王国を鬼道によって束ねる王中の王として倭人

の女王とされたので倭人の国々の中の一王とは中国

人にはついに呼ばれるずに終わった。でも『魏志倭人

伝』より後の『隋書』の倭国伝には「倭国は、邪摩堆ヤ

マトに都す。すなわち、『魏書』にいう邪馬台なり。」とあ

り、後にヤマトの勢力も認識されていたのである。女王

の国に属すとされる北九州沿岸添いの倭人の国を巡

った中国の使者は女王国までは行かなかったのかもし

れない。使者は不弥国まで来て、女王国は南の彼方

の国として引き返していった。本国で邪馬台と聞いて

いたのを現地ではヤマトと呼んでいるのを訛りに過ぎ

ないと判断したのだろうか。

わたしは小鹿焼きの秋の陶器祭りに行くのに甘木から

秋月に入るのをドライピングコースとしている。小石原

を経由して小鹿焼きの窯元に向かうコースに山門があ

る。富田徹郎氏の説によると秋月の入り口一体がヤマ

トである。卑弥呼の国と主張されている。その地の小

石原川が流れる平野が高天原だそうで、小石原川は

昔は安川と云った。日本書紀の“天の安河”と類比でき

る。わたしの名字でもある。そんなに由緒ある名とは知

らなかった。この甘木の地の平塚・川添遺跡は六重の

水濠をもった大きな環濠集落である。『魏志倭人伝』に

云う、卑弥呼が「楼観、城柵を厳かに設け、常に兵を維

持して守衛 」されていた国を偲ばせる。

7 卑弥呼の意義

富田徹郎氏は卑弥呼の日本史上の意義とは宗教的

権威で戦乱に乱れていた倭国を安定させた実績で後

の天皇制の宗教的文化的権威で日本の象徴として国

をまとめあげる象徴権力の世界史的先駆けとなった

と、云う。中国の殷・周の王権は宗教的権威とともに政

治軍事に携わっていた。実権はもたなくても信仰・象徴

として統率力をもつのは日本的なものだろう。詳しくは

著者の『日本建国史』(扶桑社)で、また邪馬台国沖縄

説は新垣篤志氏のホームページ 及び、その著書『不

思議・沖縄』で見ることができる。日本の国名の由来、

徐福渡来説も見ることができる。2~3世紀の頃、沖縄

は縄文文化に属する貝塚時代であるが、縄文時代で

も既に定住生活が始まっているのは各地で確認されて

いる。三内丸山遺跡は35ヘクタールある。吉野ケ理遺

跡でも120ヘクタールで三内丸山遺跡は4500年前

の遺跡である。沖縄でも大居住集落域が存在していた

のを否定はできない。でも、邪馬台国が七万戸と書い

てあるのは沖縄であるはずがないの根拠のひとつだろ

うが、漢文では数字にこだわるのは危うい。数詞よりも

「暖地で裸足で歩く」「冬も野菜に事欠かない」「所持物

は南海島と同じである」「正に会稽東治の東にある」を

重視すべきだ。そうすれば沖縄のイメージにあう。さら

に、新垣篤志氏によれば渡貝知木綿原遺跡から南方

系弥生人の人骨が発見された。詳しくは原著に譲って

書けないが、渡来人が来ていたことは朝貢貿易のため

に中国に赴いた沖縄の使者が邪馬台国をアピールす

る術を心得ていたであろうことを窺わせる。

7 行程問題
数字の問題を付け加えれば、帯方郡から邪馬台国ま

で12000里であり、不弥国までの行里を合計するとお

よそ10700里となる。この距離が現実を反映していな

いとしても残りの1300里に邪馬台が存在すると割り振

りしているはずなのだ。不弥国まで来た使者はあと

1300里、東か南に行けば邪馬台国に着けたはずだ。

その行程を書かなかったのはなぜか。この行程記の

はじめに「郡より倭に至るには」と書いているから、この

行程記の記録者は邪馬台国を目的地としていなかっ

たとも考えられる。使者は北部九州沿岸部を西から東

に歩いている。伊都国までは歴代の使者も通ったが今

回はさらに東に進んで奴国・不弥国まで来た。奴国は

漢の時代に金印をもらった大国なので足を伸ばして偵

察に来たのか。不弥国(=宇美は現在福岡中心部か

ら東寄りにある。)まで来て、奴国の領域が終わるのを

見届けて返っていった。陳寿はこの北部九州から来た

情報と会稽東治の東にある邪馬台国(沖縄)の位置を

つなぐために、「南のかた投馬国に至ること水行二十

日。南し、邪馬壹国に至る。水行十日、陸行一月なり」

の挿入句をいれた。邪馬台国は会稽の東にあるのだ

から半島帶方の東南の大海の中すぐ近くにある倭国よ

り南にあるのは分かっている。使者の報告は東南→東

南→東と歩いている。東よりに寄り道している。まっす

ぐ南に行けばどうなるか。南へ行く挿入句をいれて邪

馬台国に到達したことにした。距離にいささか矛盾を

感じたが目をつぶった。

また漢文の問題をあげれば、倭人が半島の南端にい

たと述べられていたり、さらに倭が他の地域にもいたと

記録にあるので迷うようだが、漢文の単語は多義語で

8つや10の意味のある単語はいくらでもある。それで

個々の記述の「倭」が何人何族を指すのかはっきりと

させるのは難しい。倭人伝に

「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。又有侏儒國

在其南。人長三四尺。去女王四千餘里。又有裸國、黒

齒國、復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海

中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。 」

とあるのは、「海の中にも島々があり人が住んでいる。

その種族は倭人と呼ばれる。」の定義にはかなってい

る。ハワイ諸島などの大平洋の島々の住人のことを奇

想的述べているのだろうが、中国近海の九州や沖縄

の倭人からは意味が広がっている。

8 ヤマト勢力
さて、以下私の下手な推理ではヤマトの本の勢力は半

島渡りの勢力が加わったものか、中国東岸のニンポー

渡りの勢力が加わったもののようだ。弥生時代は中国

大陸では戦国時代にあたり、百余りの国々が三十国

から六国に統合され最後に秦王朝に統一したが、短期

に王朝は崩壊した。北方遊牧地域にも匈奴が興る。さ

らに漢が盛衰する。戦に敗れ領地を失った王族貴族の

一部は落ち延びて流動していく。極東は民族大移動の

ような状況を呈しただろう。半島の南端には辰韓があ

るが、この国名はもとは秦韓と呼ばれていた。秦王朝

の末裔が落ち延びて国していたのかもしれない。そん

な流動化の波が日本にも及んできた。半島か、または

ニンポー渡りの勢力が遣唐使なども利用した有明海か

ら侵入し、湾内の筑後川をのぼって先住民がまばらで

抵抗が少ない奥地甘木秋月の山里に天下った。この

地で耕地を切り開き、先住弥生人の王家と混血して人

口を増し、国力を貯えていって、得意の鉄剣の軍事的

力を使って、九州北部の主導的氏族になり、東遷して

倭国の征服者大和となっていった。 半島渡りの種族

は何族なのか。半島にも降臨神話があり、モンゴルに

も同じ神話があるそうだ。モンゴル・満州・半島は万里

の長城の外域で古来遊牧民が活躍した土地だった。

モンゴルや満州の地のある一族が半島に進出し、一

部は先住民と混血して国を創り、さらに南に進んだ一

団は海を超えて九州にまで侵入し、先住王家と混血し

て鉄剣の力でヤマトの勢力になった。馬は海を渡る時

に捨ててきたので、日本神話には騎馬の話がない。ま

た、最新の遺伝子の研究によると、水稲の種子は中国

から伝わったものと判明したようだ。そして日本から半

島に伝わったのだそうだ。これを元にしてまたひとつの

仮説が成り立つ。甘木一体がヤマトの説に従うと、中

国のニンポー渡りで有明海から侵入し、湾内の筑後川

をのぼって甘木にいたり水稲技術を伝えた勢力は先

住王家と混血した。水稲稲作で力を増したヤマトの勢

力は南に日向まで進出したが「熊そ」の力が強く、却っ

て逆襲を受け敗北、日向から追われ、畿内までの長路

の逃亡・新天地の発見の度に出た。これを日本書紀は

神武の東征という。毛沢東が大陸辺境を逃げ回ったの

を長征と言うがごとし。また、半島に水稲稲作を伝えた

のなら、倭人が半島南部に進出していたのだろう。半

島でも前方後円墳が見つかっているが今の所日本に

時代がおくれるので進出倭人のものと推測もできる。

9 まとめ
卑弥呼は北部九州のヤマトにいて、邪馬台国は沖縄

に存在したというのが結論です。『魏志倭人伝』の伝え

るように卑弥呼も沖縄に居たとすると問題が生じるの

は、卑弥呼が巻き込まれた倭国の内乱が沖縄やその

近辺の諸島間の戦さか、または沖縄と九州に間また

がる戦さとなり考えにくくなる。卑弥呼の鬼道は海を隔

てて北部九州にまで及んでいたとは想像しにくい。ま

た、沖縄に邪馬台国はなかったとして北部九州にあっ

たとすると、南へ水行二十日・水行十日や、暖地で裸足で歩く・冬も野菜に事欠かないや、南海島に同じで

あるや正に会稽東治の東にあるとの、倭人伝の記述

は無視しなければならなくなる。南へ水行二十日又水

行十日と会稽東治の東の方角をしめす記事とは、とも

かく北部九州から南下していき、また会稽東治の東の

方向とで、経度と緯度から邪馬台国の位置を特定する

ものである。南が東の誤りとの説に従うなら必然に畿

内に到るが、会稽東治の東とは平行線になり交点を結

ばない。

中国の地図に沖縄を台湾の五倍ほどの大きさに描い

たものや、九州を北に本州と見えるようなものを南にし

て中国の東海に位置付けている地図があるのは中国

人の倭国の位置のイメージが明瞭に表われている。そ

れでも邪馬台国沖縄説が少数意見で無視されるの

は、卑弥呼が倭国の治乱の中心地に居たことと、もう

一つは卑弥呼が邪馬台国の女王とされているからだ。

卑弥呼が邪馬台国の女王でないなら、邪馬台国は南

国沖縄倭人の国であることができ卑弥呼は九州北部

の争乱の地に居ることができる。

卑弥呼=倭国の治乱の主要人物=邪馬台国の女王。

この情報は中国は倭全土を征服したわけではないの

で、そのイメージは倭人の朝貢の使者からもたらされ

たものであろうし、またその使者の道案内で時を隔て

て沖縄や九州北部に出向かった中国の使者の倭人の

見聞資料によった。邪馬台国までの行程距離が九州

の入り口末廬国までの移動で84%の距離を費やし、

また水行二十日水行十日と行程が加わる。近いのか

遠いのか記述が曖昧になっているのは北部九州から

の女王国の情報と沖縄の邪馬台国の位置の情報が

混在併記されていることからの混乱の現れたものとで

きよう。それだから、あくまでも中国人が思い描いた倭

国の国状である。情報では(地図に沖縄を台湾より大

きく描いているように)会稽東治の東の海中には大き

な山島がある。こそに倭の大国・邪馬台国があると知

らされていた。ために、30余の倭国を束ねていると報

告されている倭の女王は、邪馬台国の女王に違いな

いと思い込んでいた。後の『後漢書』も大倭王は邪馬

臺国に居ると思っている。

それで、2~3世紀の畿内に日本の最大級の国・勢力

があったと主張することは可能である。卑弥呼などは

熊その女酋長がかってに中国に使いを出して女王と名

乗っているだけだと、誰かが云ったのを否定すること

はできない。畿内にも弥生遺跡があるから後の大和に

発展したとも云い得る。『倭人伝』の伝える邪馬台国や

倭の女王の国は中国人が知りえた倭の大国で、畿内

の倭国のことをどうこういっているわけではない。

中国の使者は北部九州から東に進んだのに勘違いし

て南に進路を取ったと思い込んでいたのなら南国には

いかなかったのだから南国の情景を描写した記事は

なぜ加えられたのだろうか。普通に考えれば畿内に着

いて南国に来たとは思わないだろう。では陳寿がかっ

てに使者が東と書いているのを南と単純ミスを侵した

のか。もうひとつは使者の記事は不弥国で終わってい

たのを陳寿は南方に邪馬台国を想定していたので付

け加え記事を書いたのか。1『倭人伝』筆写中の東南

の誤記、2使者の東南間違い、3陳寿の単純ミス、4陳

寿の追加記事、この内では1の筆写中の東南の誤記

では南国の記事は記されない。2と3の東を南と間違っ

たのであれば南国の記事は使者の観察記事ではない

く陳寿が付け加えた。しかしその場合は方角は間違っ

ているが使者は邪馬台国までの一貫した行程記録は

書いたことになるので、残りの1300里で邪馬台国に着

くはずなのに、また水行20日10日と遠ざかってしまい

全行程12000里と矛盾が出る。また記述形式は一貫し

ていたはずだ。4の付け加え記事こそ別の資料・別の

想定を重ねたことで近遠の矛盾が生じたことに背かな

い。

不弥国までの行程距離と不弥国のあとの水行20日1

0日を同一人物が書いたとすると矛盾に落ち入る。た

だ全距離12000里が前提だ。全距離12000里と書いた

人物と末廬国から不弥国までを700里にあて、女王国

まで残り距離1300里とした人物が同じなら、この1300

里を不弥国から東南に進路をとって当てると直線距離

600里位であの甘木の山門に行き当たるのである。そ

うであるので不弥国まで行程が書いてあるのは女王国

を目指すのなら道理が通っているのである。ただ不弥

国で止まったのがなぞだ。また1300里を南に下るよう

に当てるのは北部九州に女王国を想定するのに適っ

ているのは云うまでもない。そして誰かによって全距離

12000里が想定された不弥国までは行程距離が逐一

記されているのに不弥国以降はそれがないことは別

の資料源に因っていると思わせるものがある。奴国の

2万戸も1戸4人と計算して8万人は奴国は金印をもら

ったような大国で、福岡(奴国)は今でも九州一の都会

だから昔も人口が多かったのに不思議はないからア

バウトはアバウトでもそう荒唐無稽ではない。比べて不

弥国以降の資料である投馬国の5万戸・邪馬台国の7

万戸は信じ難い。120ヘクタールの吉野ガ理遺跡で人

口1千2百と推定されている。人1千人で1戸4人として

280個の吉野ガ里級集落があったことになり、広さは

もう大都市なみで、中国の都市人口を当てはめている

のではないかと思わせる。また、水行20日水行10日

陸行1月は相当アバウトだ。リアルさに劣るのは陳寿

が想像で書いたからではないか。不弥国のあとの南へ

水行20日+南へ水行10日+陸行1月は九州の現実

の地理に当てはめようとするから混乱するのであって、

知らなければ7万戸も中国人の感覚ではそんなものか

と読める漢文である。

畿内に卑弥呼がもらった鏡が出れば大和政権の証拠

になると云われるが、北部九州のヤマトの勢力が東遷

したとすると権力の象徴として持っていくのではないだ

ろうか。置いては行かないだろうから裏づけにはまだ

不足する。また、畿内説では畿内のヤマトに卑弥呼が

いて大一卒を派遣しまた北九州を巻き込んで内乱に

明け暮れていることになる。弥生時代、佐賀と福岡の

間に戦闘状態が生じても、佐賀の吉野ガ里環濠集落

と兵庫の桜ヶ丘集落の間に戦闘状態が生まれるだろう

か。戦国時代も上杉謙信・武田信玄や信長との地理

間の戦いだった。毛利を討つには遠征軍を出した。

追記 “ヤマト”探訪記(05/9/27)
今の名前「安川」古名「天の安河」の源流は、あるいは

右に流れあるいは左にくねり、緑また緑の山間を下り、

秋月のすそ野を分けて厳かに流れていた。その6キロ

先きに平塚川添遺跡が目立つこともなく佇んでいる。

一見すると、草原のなかに水濠が水をたたへ高床式

楼観・掘立柱倉庫を取り囲んでいた。建設物の大きさ

は吉野ガ里遺跡のほうが数段に大きい。遺跡の敷地

も吉野ケ里が優るが、ずでに開発されて工場の敷地に

なている区域も平塚川添の遺跡の跡であった可能性

を残すと云われる。この平塚川添の里が卑弥呼がい

たヤマト国なら、吉野ガ里が卑弥呼の国の敵対国な

ら、卑弥呼が戦に負けたのは当然のような国力の違い

を感じさせるものだった。吉野ガ里は新興国で平塚川

添のヤマト国は旧宗主国として宗教的権威を拠り所と

して君臨していたとの思いにかられて…、その地を後

にした。

平塚川添遺跡の遠景

水掘りは卑弥呼の影も写したのか?

つづく

2009年11月 6日 (金)

邪馬台国と女王国の総まとめ

邪馬台国また女王の国が日本の地理上のどこにある

かが最大の問題となっている。『倭人伝』で知ることが

できる地理上の情報はどれだけあるだろうか。

地名(国名)、方角、距離

地名だけでは複数の同名の地があるのは普通だから

この方角、距離は必須条件と言えよう。

さらに、追加情報で

土地の風土習慣、国の大きさ戸数、登場人物、倭国情勢

も書かれているのは位置の判断の材料になる。

~~~以上1

地名(国名)情報は確証・推測できるものもあれば、不

明なものもある。時代の隔たり、異国の言葉の音訳だ

からしかたがないことだ。

方角は書かれている。

しかし、本論のページで数字にはこだわらない方がい

と書いたが、方角も問題がある。ある人が『三国志』の

方角を調べると、東南などの八方向表示はわずかで、

ほとんどは東西南北の四方向表示ばかりだそうだ。

『倭人伝』の東南は現実の地理上は東の方角であっ

た。『魏志倭人伝』の倭の地に関する方位が45度ずれている

問題について奥野政男氏の新説がある。

倭の諸国の方向は共通して45度のずれがあることは方角の

記述がでたらめである証拠ではなく何かの理由があって生じ

たものであると推測できる。

それは古代の玄界灘の航海は夏だけに限られていたことと、

方位の観測が日の出の方向を東と定めるように考えたいたこ

とによると思われる。玄界灘は秋から春先までは海が激しく

荒れる。遣唐使も八月以降に出航した多くの船が遭難した。

元寇の時もモンゴルの使者がこの季節の渡海を見合わせて

いる。魏国からの使者が倭国に来たときも夏であったに違い

ない。ところが夏の日の出は真方向より45度ずれる、だから

東は東南になるのである。説得力のある説だ。

距離は出発地点

から目的地つまり、帯方群から女王国までの総距離の記述と

中途地点(不弥国)以前は里数、以降は経過日数で書

かれている。総距離は道のりなのか、直線距離なのか

道のりで計るしかなかっただろう。

~~~以上2

(いよいよ本題)

「不弥国以降

の行程記録」が問題の発生源であるが、つぎのように

書かれている。

方角は南

距離は舟で20日で投馬国に到り、さらに舟で10日、そこから陸に上がって1ヶ月で着く。

戸数7万(途中の投馬国5万)

国名は邪馬台国で女王が首都を置く所

なぜ、問題かと云うと、不弥国の後の即水行が疑問視されることと、

北九州から南へ舟で1ヶ月も航海すると九州南方の海

へ出てしまうと予想されるからである。不弥国が推定

地以外の場所としても九州内に収まらないことは変

わりない。このことが倭人伝の最大の問題になった。

それで、方角の南が疑問視された。東なら瀬戸内海沖

を航海できることになる。それなら、畿内の邪馬台ヤマ

トとも読めそうな大和に到るではないかと。畿内なら倭

国の中心にふさわしい。7万戸も畿内でなら考えられる

と。あと一つは九州に納めるために伊都国を起点とし

てそのあとの行程を放射条に読むのである。また、距

離の調整のために短里に読む説も導入される。

~~~以上3(「不弥国以降の行程記録」が問題の源泉。放射説、短里説の導入。)

問題の「不弥国以降の行程記録」を不弥国以前の行

程記録とくらべると。

1、距離の表記が不弥国以前の里数表記から日数表記

へ変わった。以前は航海中も里数で表記していた。

2、以前は陸行したように書いているが、以降は急に

水行に変わった。

3、不弥国からすぐ南へ水行と書いたのは現実の地理

には合わない。現実には一端東周りにまたは西回

りしなければ南には行けない。また「水行」+「水行」と

書き、「水行」+「海を渡る」+「水行」と書かないのは

九州は南に会稽東治の東まで長く伸びていると考えている。現実地理と

は乖離している。「不弥国以前」はおおむね地理に符

合する記述である。また、地理を知らなければ書けな

い記述もあった。

4、戸数は2万から実数感にとぼしい5万、7万へと膨

張した。古代ギリシャの都市国家で最も繁栄したアテ

ネで25万から35万と推定されている。金印をもらった

大国の奴国は2万戸で一戸五人とすると10万人にな

る。これくらいはまだ現実的数字だ。7万戸になると35

万になる。弥生時代の大カンゴウ集落吉野ケ里遺跡は

千人程度だ。7万戸は平安京や平城京を思わせる。立

ち寄り地の距離も大幅に伸び、土地情報もない。総じ

て大雑把になった。

1と2は記述形式の変化。3と4は表現の曖昧化または

現実離れである。

以上は普通に考えれば情報源が変わったことを示す。

~~~以上4(不弥国以前とその後の情報の変化)

「不弥国以降の行程記録」の南の方角に問題があるか

らと、方角を南から東に修正されるが、さらに東へ30

日航海し、目的地がまだ遠いのに、わざわざ不弥国ま

で陸を歩いたのは不合理である。たとえば、案内人な

しで旅し、不弥国で目的地を探し出し、後は水行のみ

になった? 伊都国で聞けば分からないはずはないと

思われる。第一に外国の未知の場所を訪ねるのに案

内なしで行くことは考えられない。女王国にとって魏の

使者は鏡や金印や国書を運んでくる大切な国賓だか

らである。道に迷ったり盗賊に襲われたりしないように

案内と護衛をつけるに決まっている。

~~~以上5(南から東に曲げての不合理)

『倭人伝』には「不弥国以降の行程記録」の“南”を補

強する記述がある。

「当に会稽東治の東にあるべし。」は南に向かって舟で

30日の航路と結びつくと経度と緯度から位置を特定す

ることになる。沖縄あたりを指している。当に『倭人伝』

は邪馬台国を沖縄の位置に定めているのである。さら

に、南国の風土習慣の記述や南海島の話しがつづく

のも南の方角を確認させる。また、倭人は「大夫」と名乗った

と書いてある。大夫とはもともとは殷の官職の名称である。そ

の殷キョの遺跡からは大量の沖縄産の宝貝が発掘されている。沖縄

は日本で最も早く中国と交易していたので沖縄倭人は中国

通で「大夫」と名乗って自らを売り込んだのである。また

“南”は誤記で、東に行ったのを南と写し間違えたとする

見がある。その場合は南国の風土の記述は書かれなかっただろう。

だからこの説は完全に間違いである。または東に

水行したのを南に水行したと勘違いしたという説もあ

る。それでは行程を記述した著者は本州のどこか、或

いは畿内に行き着いたことになる。南に達していない

のに温暖の地の描写をしたのなら、その情報はウソに

なる。ウソを書いたと仮定しても、正に『倭人伝』は会

稽東治の東の沖縄を女王の都及び邪馬台国に位置付

けているのに変わりはない。だから南方の風土の記事

が書かれているのである。

~~~以上6(南方情報の信憑性と沖縄)

5段6段の考察は南の方角の疑問を打ち消すのに十

分と思われる。それは邪馬台国を沖縄に位置付けて

いる。ところが、女王国が倭国の内乱と平和の主要関

係国であるとする記録からは地政学的に疑問を再生

産する。なにしろ、北部九州と沖縄は南海に隔てられ、

阿蘇山にはばまれ、沖縄の卑弥呼が政治的影響を及

ぼすにはあまりにも隔絶されている。

「不弥国以降の行程記録」の南に疑問を持ち東に変え

ても矛盾を生み、「不弥国以降の行程記録」に従って

沖縄に女王の都を置いても不都合が出る。

~~~以上7(沖縄邪馬台国の不都合)

もう一度、原資料が東に水行と書かれていたのを南と

書き換えられたか、それとも東に進んでいるのを南と

誤認して書いたのかと考えてみると。東なら本州へ向

かい瀬戸内海の行路があるので女王国の一大卒が留

まる伊都国に立ち寄るだけでよく、わざわざ不弥国ま

で陸行した意味がない。畿内を目的地にしていたのな

ら北部九州ではなく畿内近辺の情報が多くなるはず

だ。ところが南方の風土の記事が続くのである。

~~~以上8(あらためて、東へ曲げる不合理)

「不弥国以降の行程記録」が疑問矛盾を解消できない

なら、「不弥国以降の行程記録」の信憑性は低いと判

断できる。では「不弥国以前の行程記録」を見直してみ

よう。

おおかた地名の推測がつくのはこの「不弥国以前の行

程記録」である。風土描写もリアルといってもよい。戸

数も奴国2万戸は多すぎるが金印をもらった大国であ

るので、荒唐無稽と否定ほどのこともないだろう。注目

すべきは総距離が12,000里との設定の中で、現代の

地名で唐津(末慮国)から福岡(奴国)を600里に当て

ていることである。それで奴国から女王国まで残り

1,400里である。唐津から福岡までの距離の2倍を福

岡を支点に円を描くと弥生時代の北部九州の遺跡が

カバーできる。少し広めだが漢文数字でいえば誤差の

範囲。また、行路は西の松浦から東の不弥国へ移動し

ているが不弥国の東南あたりに甘木の山門が来る。甘

木を目指して移動したような進路になるのである。{ 甘木は邪馬台国の候補地の有力な一つ }それなら、 直

に福岡(奴国)に入港すればよく、わざわざ松浦から陸

路を取らなくてもよいと思うが、もしこの行程を歩いた

使者が魏の明帝からの贈物金印や鏡を持参していた

のなら朝鮮通信使が半年かけて日本陸地を行進した

ように沿岸諸国村々に魏の使者と贈り物の到来をアピ

ールしたのかもしれない。

依って「不弥国以前の行程記録」は北部九州女王国を

跡付けている。

~~~以上9(「不弥国以前の行程記録」の正しさ)

それでなぜ不弥国で里・国名の記録が停止して女王

の国には到っていないのはどうしたことだろう。

一つの推測、不弥国のつづきに東南に1300里余で女

王国に到るなどの原資料があったのを、「当に、会稽

東治の東にある。」と信念を持っていた編集者が誤報

と信じて削り、または女王の邪馬台国まで行く記録で

はないと思い、削り。「不弥国以降の行程記録」に書き

直した。

二つ目の推測、この使者は倭の国々の偵察に来てい

たものだっだ。舟に乗って港から眺めているだけでは

実情がしれない。陸路を歩いて国情を調べた。女王国

の情報も集まったので内陸の女王国までは行かなか

った。

三つ目の推測、魏の明帝は卑弥呼に「親魏倭王」なる

金印を与えている。これはたいへんな厚遇であると言

えよう。奴国は漢から「漢委奴国王」と刻した金印をも

らった。この文句は漢に従属した委の奴国王のような

感じを受ける。しかし、卑弥呼は“親魏”(魏と親しい)

倭王であるので魏と肩を並べることができる大国の同

盟国のような感じがある。魏は西方の正真正銘の大国

である大月氏にも“親魏”と刻した金印を与えているか

ら、大国扱いされたことに違いはない。奴国王は委の

字が当てられているが、卑弥呼は人編がついた倭王

である。中国人は普通、外夷には人編は付けないので

ある。同盟国として強国扱いされたらしい。そんな倭王

の国は何かの理由で公文書には最後の道筋は秘密に

した。邪馬台国を7万戸としているのは「下人もあるい

は二、三人の婦がある。」と一夫多妻の風俗と書いて

いるので、2人の婦人がいたとして子供が1戸平均3人

として6人家族なら42万人になる。女王の政治力が及

ぶ投馬国は5万戸だから同じ計算で30万人になる。戸

籍から割り出した魏は443万人、呉は230万人、蜀は

94万人と推測されているので倭の投馬国が女王国に

連合して戦争準備すれば蜀に匹敵するものがある。

(考えてみると、一見そのような印象を与えるが、現実

には一夫多妻が成立するには無妻の男がいるのだか

ら、平均一戸五人で計算すると合計60万になる)その

勢力が魏の敵国である呉の東の海に控えているのな

ら、“親魏”の外交関係は呉にとって脅威になる。

信憑性の希薄な「不弥国以降の行程記録」を除いてし

まえば北部九州の邪馬台国候補地が浮上してくる。不

弥国までで止まっているので所在地の最後の詰めは

できない。『倭人伝』は会稽東治の東の沖縄諸島を邪

馬台国と位置付けているのは間違いないが、沖縄に

邪馬台国はあったとしても、卑弥呼がいて北部九州ま

で鬼道を及ぼしていたとは考えられないので、卑弥呼

は北部九州にいただろう。筑紫から最大、大分(日向)

の一部あたりまでが女王国の所在地ではないだろう

か。
~~~以上10(「不弥国以前の行程記録」の欠落の

原因と沖縄邪馬台国の効果と不都合)

また、「不弥国以降の行程記録」の水行10日・陸行1

月は倭人の距離の数え方を取入れているのだとの説

もある。その人の説で出した距離を地図に当てて南に

下ると鹿児島くらいになる。しかし、その人は伊都国を

起点に水行20日で投馬国。同じく伊都国を起点に水

行10日で邪馬台国と放射状に読んで大分の宇佐あた

りを邪馬台国にあてている。でも、現実の地理を考慮

に入れなければ「不弥国から南へ海岸にそって航海し

20日で投馬国に着く。さらに、南へ海岸にそって10日

航海し、陸に上がって1月歩いて邪馬台国に着く。」と

の表現の漢文だ。「水行すれば10日で、陸行ならば1

月」と読む説もあるがそれは「水行十日或陸行一月」と

でも書かなければ読めない。「或」を記さなくとも読める

となられば二つの読解が可能となり、はなはだ大雑把

で地理情報としては用をなさない文章になる。そんな

漢文は実用性に欠ける欠陥文法と言わなければなら

ない。そんなにしてまで読み替えるのはただの当てつ

けとしか言えない。さらに、放射状に読んで水行20日

で投馬国、水行10日で邪馬台国なら投馬国が遠い距

離になり、邪馬台国の南になる。南に陸行一月だから

邪馬台国が遠いと言う人もいるが、さらに南に一月も

陸行するなら、その分南に水行してから上陸すれば速

い。放射説はそもそも文法に合わないし、無理に読ま

せるなら、悪文になる。素直にゴシック体のように読む

べきだろう。他の文書に放射状に書いた事例はあるが

東に某所に到る、何里。南に某所に到る、何里。西に

某所に到る、何里。などと、すぐ気が付く書き方になっ

ている。中国人が『倭人伝』を読んで行程の途中から

放射状に変わるような難解な読み方しはないでしょう。

放射説で読むと、温帯の鹿児島あたりに納まるが亜熱

帯の会稽と南海島からは遠く、また「会稽東治の東」の

記述にもつながらない。もし、著者がつながらない放射

状に書いているなら、「南海島」や「会稽東治の東」の

記事は書かないだろう。

日本の地理を知らない中国人が『倭人伝』を読むと「不

弥国以降の行程記録」は上の「」内のゴシック体ように

読むだろう。不弥国の後、南に水行も何の疑問も持た

ずに読む。水行を中国の地理のイメージで黄河か長江

のような大河を南に下ったと読んで、会稽東治の東の

方角の地に到達したことに疑問などはいだかない。事実、後

代に『魏志倭人伝』を引用した各中国正史の編者たちは皆

直線的に読んでいる。だから中国人に読ませるための倭

人伝が邪馬台国を会稽東治の東=沖縄に位置付けているのは疑えない! 

疑っているのは現実の地理に当てはめようとしている

日本人だ。それでも? 沖縄に卑弥呼が居ることは地政

学的に成立しにくい。『倭人伝』を“手直しせず”中国人

が読むように読んでも不都合が出る。そうであるなら「会稽東

治の東」につがなる「不弥国以降の行程記録」を取り除いてし

まえば、総距離12000里で、不弥国の先あと1300里の

情報が生きてくる。これを適用すれば北部九州に女王

の国は収まる。

~~~以上11(放謝読み九州説の不合理と素直な読

みの「不弥国以前の行程記録」の正しさ)


結論

「不弥国以降の行程記録」で邪馬台国の位置だけを問

えば、沖縄に納まる。しかし、卑弥呼も沖縄に関係付

けることが沖縄邪馬台国を自己否定する。ではこの関

係付けを断てるのか? 断てると推測できる!

「帯方郡から女王国にまで一万二千余里。」とあるの

で、一万二千余里は邪馬台国までの距離ではなく女王

国までの総距離だ。それで不弥国から女王国にまでは

あと1,300里である。そして「不弥国以降の行程記録」

は邪馬台国までの道程を表わしている。故に、女王国

の卑弥呼は不弥国からあと1,300里の地にいた。邪馬

台国は不弥国(または帯方郡)から舟で30日、南

に下った会稽東治の東に存在したのである。それを中

国人は勘違いしたか、故意にか、卑弥呼の都が邪馬

台国に置かれていると書いた。それは中国人が卑弥

呼は倭人の国々を統べる代表の女王であるので、てっ

きり7万戸の倭人の最大国である邪馬台国に都してい

ると思い込んで書き記したと推測する。卑弥呼と会稽

東治の東の邪馬台国を関係付けることは『倭人伝』の

記述の中では不弥国から残り1300里の計算に矛盾を

生む。現実の地政学上でも問題が出てくる。勘違いと

して関係を断てば不弥国の先あと1300里に女王国を

位置付けることができ、卑弥呼がいない邪馬台国も沖

縄に位置付けることができる。

勘違いでないなら、9の段の三つ目の推測が正しいな

ら、呉の領地の会稽東治の東の海には山島があると

昔から知られているから、魏の明帝はこの山島に、北

部九州から来た倭の女王の国は存在すると見せ掛け

るために公式文書では「不弥国以降の行程記録」に

「女王の都する所」と偽書して、敵対国の呉に圧力をか

けた。

(昔の中国では沖縄は大琉球と呼ばれ、台湾は小琉

球と呼ばれていたので、沖縄は大きな島にイメージさ

れていた。「不弥国以降の行程記録」は次のように綴

る「南のかた投馬国に至る。水行二十日。…五萬余戸

ばかり有り。南し、邪馬壹国に至る。女王の都する所な

り。水行十日、陸行一月なり。…七萬余戸有り。」)

~~~以上12(邪馬台国と女王国の分離による問題

解決。そして同一視の理由)

もう一度考える。

1、邪馬台国を沖縄に位置ずけ、更に卑弥呼を関係付

けると、地政学上及び1,300里=水行30日+陸行1月

の矛盾がうまれる。

2、邪馬台国を畿内に位置ずけると、温暖で会稽東治

の東にあることや、不弥国まで陸行したことや、東が南

と書かれていることや、不弥国から余す所1,300里の

疑問が生じる。

3、邪馬台国を沖縄に位置ずけ、卑弥呼は北部九州に

位置ずけると、水行30日+陸行1月は邪馬台国までの

道程で、不弥国以降余す所1,300里は女王国までの

道程とできる。地政学上の問題も、不弥国まで陸行し

た問題も、南と書かれていることも、温暖で会稽東治

の東にあり南海島と風俗が同じであることも問題にな

らない。ただ一つ「女王の都する所」を除いては。

…勘違いでなく、呉への威圧のために偽書したと考えら

れる。

不弥国以降の記事は以下のように列んでいる。

1「東行して不弥国に至ること百里。…千余の家有

り。」は北部九州の地理情報

2「南のかた投馬国に至ること水行二十日。…五萬余

戸ばかり有り。南 し、邪馬壹国に至る。女王の都する

所なり。水行十日、陸行一月なり。 …七萬余戸有り。」は南方の地理情報


3「女王国より北はその戸数、道程は略記できるがた

の余の国は遠絶 にして詳らかにできない云々。その

南に、狗奴国があり、王は男である。…女王に従わな

い国である。」は政治情報

4「郡より女王国に至ること萬二千余里。」は不弥国に

1,300理加えた距離が萬二千余里だから、北部九州の

地理情報。

5「男子は貴人下人と別なく、皆黥面文身する。云々」は

南方の風俗情報

6「その道里を計るに、当に会稽東治の東にあるべ

し。」は南方の地理情報

以上、六段になっているが、このなかで北部九州情報

は1、4である。南方(沖縄と沖縄に至る)情報は2、6、

5である。

4は女王国までの総距離だから北部九州の地理情報

の最後に並べた方が一貫したまとまった文章になるは

ずだが3の後に並んだ。締めくくりの文章としたのか? 

不弥国以降の1,300里の情報が欠落しているのが大

きななぞである。1と3の間には次の記事が入ると推測

される。

「南し、邪馬門国に至る千三百里。女王曰卑弥呼、官

曰卑弥彦。二万四千余戸 あり。」(註 卑弥彦と

は卑弥呼の弟の名とする(笑))

これをXと名付け、記事の列びに入れると1→X→3と

つながり、3は女王国の南にも女王国に対抗できる大

国があると書かれていることからも北部九州の政治情

報として加えることができる。沖縄ではそのような大国

を想定することは地表面積の大きさの上で考えにく

い。原資料では不弥国以降に1→X→3→4の記事が

北部九州の情報として列んでいたと推測できる。このX

の記事を削除して、2の記事を差し込むと3、4の北部九州の記事

も邪馬台国に関する情報に見えてくる。4が消されな

かったことにより、水行30日+陸行1月=1300里と、

ちぐはぐ な結果になった。6は「当に…」と断定また推

量の語句が付いているのは、その書換え資料を見た

倭人伝の編集者がちぐはぐさをいぶ かったが、5の会

稽の文身の記事が続くことから思い直して、まさに会

稽東治の東にあると、5のあとに6を書き入れたと推察

される。6は註として書かれたものかもしれない。それ

が本文に紛れ込んだ。漢文ではよくあることだ。

北部九州沿岸国の国情情報はリアルだから、倭人伝

全体を偽書とするわけにはいかない。2が創作部分で

しょう。五万戸七万戸は多すぎる。中 国の大城郭都市

の戸数を写したのだろう。投馬国は薩摩に当ててみる

と、今のピョンヤンに相当する帯方群から薩摩と薩摩

から沖縄までは倍の距離があるので投馬国まで20日

邪馬台国まで10日に当てはまる。邪馬台国の名は沖

縄倭人が告げたと考えられる。もとは山台国で、山と

広大な陸地からなる国の意味で名付けた。陸行一月も

このイメージからでた数字でしょう。「女王の都す所」と

偽書して、邪馬台国と卑弥呼を関係付ける邪馬台国

探訪記録が魏の明帝時代に作られ、 呉を威圧するた

めに公文書として公表された。

~~~以上13(邪馬台国に卑弥呼を関係付けた文章

構造)

朝鮮の地図に半島と日本を写して、半島を巨大に、日

本を沖縄当たりに描いているものがある。あれは沖縄

までを12,000里に当てて、帯方郡から20日水行し、投

馬国を半島南端に当てるとあのような地図になる。朝

鮮半島が巨大になるから見栄っ張りの半島人に受け

入れられた。20日水行を不弥国以降にすると日本(倭

の国土)も長大になって、呉は魏と親しい巨大な半島と

長大な倭の国土に威圧される。そんなダブル効果を狙

って4の12,000里を残したのなら、心理戦にたけたこと

だ。

結局、魏志倭人伝の行程記事には矛盾がある。記事

通りに読めば九州の南端から海に出てしまう。また、

不弥国以降1,300里=水行30日+陸行1月も整合性がない。そこで、記事に何かしらの修正を加えなけれ

ばならなくなった。一案は南を東に修正して畿内に導く

ことである。二案は単里に読んだり放射的に読むこと

で九州に納めることである。でも、この両案は邪馬台国

が亜熱帯の南海島の近くに位置するという記事には矛

盾を残す。また、伊都国以降1,500里=水行10日+陸

行1月(伊都国→邪馬台国を放射説に読んで)も矛盾

である。それで、無修正の原記事のように邪馬台国を

南海島の近くに位置させても女王国は倭国騒乱の中

心国との記事もまた成り立たないので、邪馬台国は

「女王の都する所」の記事を削除修正すれば邪馬台国

と卑弥呼の関係が断たれ、邪馬台国は南海島の近く

に卑弥呼は北部九州に位置させることができ総ての矛

盾が解消できる。

~~~14(邪馬台国に卑弥呼を関係付けた効果とそ

の修正効果)

邪馬台国論争は倭人伝から遊離して南方の風土の描

写や沖縄説を歯牙にもかけない。確かに女王国を沖

縄に位置付けることは地政学的には考えられないが、

倭人伝が邪馬台国を会稽東治の東に位置付けている

のは事実だ。その事実を認めれば、水行30日+陸行1月とはフミ国から南へ下って会稽東治の東までの行程

で、畿内の邪馬台国までの行程とする畿内説は倭人

伝の記述の事実からは成立たない。同じ理由で放射

説も成立しない。邪馬台国は魏志倭人伝が唯一の出

典の伝承であるので、倭人伝の記述を無視してしまっ

ては邪馬台国をどこに求めればよいのであろうか。邪

馬台国を定義できるのは倭人伝しかない。

~~~15(倭人伝から考古学へシフトした邪馬台国論

争)

おわり            

2009年11月 7日 (土)

日本は儒教文化圏か?

日中韓の賢者会議が開かれ、日中韓の交流一体化を

進めるアジア共同体構想が話し合われた。その一体

化を促す前提条件として3国は儒教文化圏に属してい

ることがあげられている。この共有文化が3国の宥和

協力を容易にするとされている。

そういわれても、中と韓の文化は同類だろうが日本の

文化も仲間とされるのには何か違和感が伴う。本当に

日本は儒教文化圏に属しているのか検証してみよう。

1 国の始まり
世界の4大文明の一つの中華文明はその周辺国には

ヨーロッパにおけるローマ帝国文明のような立場にあ

った。ユーラシア大陸の東端の近海に位置を占める日

本列島には、世界文明も西方の朝鮮半島や中国・満

州を通路として伝わってきた。仏教も仏典が漢訳され、

朝鮮を通しての伝来の経緯はその事情の証である。そ

れだから日本は漢字文化圏であるのは間違いない。

水田稲作も大陸半島経由で弥生時代に伝わったのは

同時期、鉄・青銅器・環濠集落などの文化の基礎素材

も中韓と共有しているのと同じである。弥生文明は中

韓の影響が大きな文化であるが日本列島では弥生時

代以前に、1万3千年に及ぶ縄文文明の中にいた。そ

の縄文文化は途絶えず弥生時代にも縄文文化が染み

込んでいる。

それだからこそ弥生文明はすでに中韓と異なるものに

なった。例えば、弥生時代を特徴付けるものは鉄、青

銅器、環濠集落、水田稲作などだが、弥生時代でも近

畿地方は鉄器の出土は少なく、多量の石器がごろごろ

出てくるので、石器へのこだわりが見えるのだそう。今

でも棺桶の釘は石で打つのは鉄は穢れたものとの風

習が伝わっているのだと考えられている。弥生時代中

期の北部九州でも土器は縄文系の突帯文トッタイモン

様式である。朝鮮半島の無文土器の系譜と思われる

ものはごく少数あるだけである。もっとも古く水田農耕

が見られる花畑遺跡(唐津市)も縄文系の突帯文土器

が圧倒的に多く、石器も縄文系が圧倒的である。近畿

では青銅器で祭祀用具の銅鐸を作った。その銅鐸に

は臼で脱穀している絵柄もあるが狩人や鹿などの縄文

狩猟文化も写し刻されているのである。伝統は反古に

されなかった。大陸・半島に近い北部九州では青銅器

の剣が出土する。そして西日本には環濠集落が多い

が東日本には非常に少なく、東北地方にはまずないと

いう。環濠集落は吉野ケ里遺跡に見られるように防御

施設なので青銅器の剣と同様に弥生文化の大陸・半

島の戦争文化を表わしたものだろう。弥生時代になっ

ても大陸文化で一色になったのではないと分かる。吉

野ケ里遺跡のような環濠集落は大陸や朝鮮に見ること

ができる住民を戦乱や盗賊から守る城郭都市に習っ

た集落と思われる。一方、縄文時代の三内丸山遺跡

はこれといった防御施設をもたない集落である。平和

が基調の日本列島では弥生時代でも剣や環濠集落で

埋め尽くされることはなかった。金属器を使わなくても

石包丁はよく切れた。金属器は武器の用途が主だっ

た。後に、奈良に平城京が作られた時も城壁は設けら

れなかった。平城京は弥生の吉野ケ里遺跡を継ぐもの

でなく、縄文の三内丸山遺跡を継ぐものである。

2 国の体制と歴史の違い
弥生時代が紀元後3世紀に終わると古墳時代が始ま

る。五王の存在が伝えられ、大規模古墳が作られたこ

とからも分かるように国としての規模も広大化して日本

開びゃくの本格的国家が生まれる。大王オオキミを仰

ぐ大和王朝体制が出現した。『日本書紀』には記載が

ないが『隋書』には紀元後600年に倭のアメノタリシヒコ

大王が使いを送っている。政治のさまを尋ねられて「天

を兄とし日を弟し、夜明け前に祭り事を聞き、座して、

日に働かせます。」と答えると隋王に非常識だと叱られ

た。天を祭って太陽の恵みにより国を立てていますと

でも云ったつもりだったのだろうが国家体制の整った

隋の文帝には滑稽に見られた。すっかり恥をかい

て“文明国”の体制の取り入れにやっきになった。「憲

法十七条」「冠位十二階」が定められ官僚制律令中央

集権体制が試みられた。それから607年、小野妹子が

隋に向かい「日出ずる処の天子、云々」と、あいさつ状

を差し出した。これは隋の煬帝には「無礼」と感じさせ

るものだった。対等な国として外交を試みたのである。

この時期、中国は周辺国際関係に華夷朝貢体制を強

いていて、中国の皇帝を宗主と仰ぐことを貸していた

のだからである。日本は律令制度の国になって従属的

夷を脱して対等な華になる自立を意志する。663年、白

村の江の戦いに敗北し、天知天皇が没すると壬甲の

乱が起こり、その結果天武天皇が立つと、唐に対抗す

べく一掃の体制整備が進められた。文武天皇の701

年、大宝律令が完成し、710年には平城京への遷都が

行なわれ、都城からの中央集権体制が試みられた。さ

らに、720年には『日本書紀』が編集され国の伝承創

世史話も公示される。伝統的大王の呼称も天皇に換え

た。中国では皇帝は王侯の上位の権威を持つものだ

から、この天“皇”という名は中国の“皇”帝に対抗して

同格の権威を付された呼称だろう。この処置も国際関

係での儒教文化圏の華夷体制から出る試みである。

中国の律令中央集権体制は秦の始皇帝の時代に完

成した。秦は最後に残った大国斉も武力制覇して秦王

朝を打ち立てた。その王朝は旧来の体制である各地に

宗主国に従う国を封建して間接に支配する体制を破壊

し、都城咸陽に権力を集中し、全国に官僚を配して一

元の法の支配で直接統治するものである。この体制を

修正して継いだ隋唐律令体制を日本も導入した。隋唐

では孟子が周王朝のモデルとして説いた土地を国家

所有とする均田制をとっていたが、しかし、日本では各

地の豪族の土地所有を認める班田である。官僚体制

も国司が中央から派遣されたが群司がその直下に置

かれた。この群司は地場の豪族が任命されていた。そ

れは旧来からの地方の支配者で大きな権限があり世

襲でもある。このような中国との差が出たのは秦・隋唐

は完全武力征服によって統一王朝を立てていた。くら

べて、大和王朝は『日本書紀』にあるように「天つ神は

葦原の中ナカつ国に荒ぶる神いるので「言向コトムケ

和平ヤワス」ために降臨する。」と言うのだから武力を

背景にした話し合い・取り引きによる「国譲り」の形式

で支配領域を拡大していったことが多かったのだろう。

地域の豪族に一方的に政治意志を貫徹することは難

しかった。ここに日本と儒教文化圏の体制の違いの一

つがある。日本で中央集権体制が整うのは明治維新

で西郷南洲が断行した「廃藩置県」の後である。

また官僚養成大学寮の老律令の授業科目は周易・尚

書・周礼・春秋左伝・孝経・論語などで後に公羊伝・穀

梁伝も科目に加わる。しかし、華厳宗や天台宗などの

国家的導入も盛んだった。最澄の活動は鎌倉仏教成

立の基礎を作るが儒教のほうは『懐風藻』『白氏文集』

などが編集されたように文芸の上での影響がほとんど

だが『経国集』には「故に公私等しからずと謂えども…

あるいは親に背いて国に準じ、あるいは私を捨てて公

をなすあり。…父にあっては孝を本とし、君にあっては

忠を先とす。今日の旨を探るに、よろしく忠を先にし孝

を後にすべし」とあるのは公=日本国共同体が家族と

並ぶ同族と見ることで儒教との違いがすでに現れてい

る。

3儒教文化圏の中央集権体制に替わる日本の国体

10世紀、朝廷公家政治が行き詰まってくると在地領主

の武士が台頭してくる。やかて武家の政権である幕府

が実権支配する体制が出現する。これも中韓の儒教

文化圏に異なる体制である。これを中国の歴史に当て

はめてみると春秋期の覇者の時代に比べることができ

る。最初の覇者になったのは管仲の補佐を受けた斉

王の桓公である。覇者とは何か。当時中国黄河流域

の諸国を束ねていた周王朝はすでに実力が衰えてい

たので、南の長江流域の諸国が北の周王朝の勢力圏

に拡大しようとしていたのを阻止できなかった。そこで

斉王の桓公が周王を担いで「尊王攘夷」のスローガン

のもとに黄河流域の諸国に新たな同盟を結んで対抗し

て、南の勢力を退けた。つまり、本来の北の盟主であ

る周王朝に代わって実効采配するのが覇者である。し

かし、この覇者は周王を宗主王として奉っているので

ある。斉の桓公が斉国の実力を頼りにして王朝の最高

の権威のある国の祀り、封禅の儀式を行おうとすると

宰相の管仲が身分を越えたことですと諌めた。覇者は

実力があっても周の祝祭王としての権威は犯せないの

である。武家政権と天皇の関係もそのようであった。

『御伽草子』に「日本国は神国にてましませば、ものの

夫の手柄ばかりにては、なりがたし。云々」とあるよう

に。中国では覇者といったが、日本では天皇が征夷大

将軍なる官位を与えた。中国の封禅の儀式にあたるも

のは新嘗祭だろう。中国ではついに周王の権威はまっ

たく廃れ、各地に周王に代わる王を名乗るものが現れ

て戦国時代を迎える。その戦国時代を征した秦王の政

は自らを皇帝と号した。それ以降、漢王朝以下歴代の

王朝は皇帝に権力を集中し、中央集権体制を引いた。

日本では中国の王と覇者の関係、即ち、天皇と征夷大

将軍の体制が江戸時代まで継続する。周王は国力が

衰えてからは祭祀権だけを保っていた。それも戦国時

代に失い秦王朝に取っ手代られてからは皇帝に実権

も祭祀権も集中した。秦の始皇帝は幸行して各地の祭

祀も執り行なった。日本では、天皇は「伐」は征夷大将

軍に任せ、国の「祀り」を行う国体となった。聖なる元首

の権威と実権をもった将軍と権威が分離した体制とし

て継続した。征夷大将軍となった徳川幕府は各地の実

力領主大名の領地を封建して藩とした。中央集権体制

と祭りと実力政治が分離した二頭政府の封建体制、こ

の違いも儒教文化圏との歴史の歩みの差異を大きくし

た。

おわり

儒教は宗教か?

1 『論語』のセリフ

この問いは西欧でも問題になったが宗教ということで

落着いた。もちろん儒教は宗教に違いない。そう言わ

れていないのは『論語』に「怪力乱神を語らず」「鬼神を

敬して遠ざく」などのセリフが入っていて、これを根拠に

している人がいるからだろう。しかし、史書『国語』では

孔子は怪神にも博識を披歴しているのであるので『論

語』も絶対ではない。『論語』が編纂された経緯は知ら

れないのでどんな意図を込められているのか分からな

い。私見では宗教性が薄い荀子学派が編纂したとも

推測できる。また『論語』も『荀子』も共に学篇で始まり

尭篇でおわるのも似ている。 さて『論語』では「鬼神を

敬して遠ざける」と云うがこの鬼神には化け物・死神・

死者の霊の意味もあるので、ここでの敬して遠ざける

とはそれを指しているのではないだろうか。鬼神には

祖霊の意味もあるが、これを指すなら孔子の立場から

は不可解でこの言葉が信じ難いものになる。孔子は孝

を説いたとされているから生きている親には孝を尽くせ

と云っておきながら、死んだ親はもう遠ざけるのでは御

都合主義だろう。時々は面影を思い起こしてなつかし

むのが孝心ではないのかな? ところがまた、鬼神に

仕えることを問われて「人(生きた親の意味か)に仕え

るのもまだ良くしない。鬼神に仕えるのはのはなおさら

である。」とも答えている。これが祖霊の意味なら何と

も祖先にそっけない態度だ。修飾的表現で洒落た言い

回しをしてみただけなのではないだろうか。他のところ

では「礼をもって喪し、礼をもって祭る」と祖先を祭るこ

とを説いている。さらに、禹王が自らの食事を慎ましく

して供物に努めていることを誉めているところもあるの

だ。 つぎに『論語』には「いまだ生を知らず、どうして

死を知っていようか」ともある。これは死後を問題にし

ないもののようだが、これも死後のことを聞かれたのを

分からないと、洒落た言い方をしただけかもしれない。

また「祭りの礼は神が居ますがごとくする。」とも云う。

それでは孔子は鬼神崇拝信仰はすでになくしていても

伝統の礼儀は守らなければならないから、祭る真似を

するというのか。ところが確か「礼と云い礼と云うも心

を込めることである。」ともある。礼は心からするの

か?真似事か?どっちなのか? つぎに「孔子が性と

天道を云うのは聞いたことがない。」との子貢のセリフ

である。しかし『論語』には孔子が「天」に信頼を寄せて

いる話しが出てくる。『論語』の他のところでは「鳳や図

が出て来ない。わたしも終りだね。」とも云う。これは天

の吉祥を期待していたと、天道のことを云っているので

ある。ただ譬喩として云ったまでなのか? でも『春秋

経』また公羊伝・左伝では孔子は麒麟を獲たことになっ

ている。鳳鳥とおなじく天の吉祥だが、孔子は泣いたこ

とになっている。『論語』では鳳は来なかったと失望し、

『春秋経』では麒麟を獲て我窮まれりと泣いた。どうも

孔子の天や鬼神への態度が定まらない。

孔子の「仁」についての定義も一つの意味を結んでい

ない。人の思想も歳とともに変化し生涯一定なもので

もないだろうが、『論語』の相容れない言葉は何を意味

するのか? 孔子はエネルギー・情熱のある人だった

から弟子を集めることができたのだろう。また博識でも

あったそうだが、思想家として論理的に考える人でな

かったからか? それとも『論語』は弟子達が編纂した

ものだから、弟子達の間で聞き違いがあったのか? 

それとも時間をへての記憶違いか? それともすでに

弟子達の間で孔子の教えの解釈の違いが生まれてい

たのか? 弟子が師を自らに合わせて創作することも

あるだろう。 

『墨子』などでは儒者は葬礼業者として出てくる。儒教

は三年の喪を唱えていたのは葬礼業者には仕事にな

ると云うことだ。儒者がいつの時代も沢山いるのはこ

の定職があったからだろう。また、孔子が老子に礼を

習ったと儒教の書に出てくるが、それは葬礼を習った。

昔の葬儀とは宗教行為に外ならない。また、儒教は老

壮などと違い運命や超越的なものに頼らないで、人為

に信頼を寄せるものだから宗教とは言い難いとの意見

がある。しかし、祖霊や天は超常的な物である。また、

その人為を重んじるとは荀子の儒教のことである。荀

子は法家の学を取入れた儒者だ。それだから李斯・韓

非子などの弟子ができた。法家には宗教性が現れず、

人間は合理的に社会を操れると考えていた学派であ

る。荀子は後学の儒者であり、もともとの儒者は運命

論者と墨者は云っている。墨者は儒者の公孟子と交際

していた。儒者の言葉に、寿と貴位(または富みか?

失念した。)は天命であるとのセリフがある。

2 礼

孔子は周王朝と周公を慕っているが周王朝は祭政一

致の王朝であったし、周公はその最高位の神官であっ

た。その孔子は礼を復興しようとした。礼とは行儀作法

だけではなく、その第一義は祭礼であろう。示偏は神

事に係るものに付いている。孔子が復興しようとした周

礼とはとりもなおざず周の祭礼なのである。夏王朝が

あったとするとの礼も祭礼であるはずだ。殷王朝は甲

骨文から分かるように上帝を祭る祭政一致の国家であ

ったので殷の礼も祭礼である。周の祭礼政治のさまは

宗周の鐘(穆王末年・前940頃?)の金文から知ること

が出きる。

「昭王は文王武王によって初めて周に服従した土地を

巡察された。この時、南国フクシが反乱を起こし、深く

進攻してきた。王はこれに反撃してその都ハクを攻略

した。(中略)今ここに、皇天上帝百神が我を安んじ、

我が謀事を妨げられない。ここで我は皇天・先代王を

合せ祭り、記念して宗周の宝鐘を作る。鐘は厳かな音

を響かせ、祖霊を招く。先王は誠にこの上におわしま

す。かくて我に多幸を降し、子孫にまで福を及ぼし、類

なき長寿を与えられる。云々」

第二代昭王の武功を回顧し、現王国に天帝祖霊百神

の降臨する祝福を述べ、ここに皇天と先代王を合わせ

祭ると記されている。天帝・祖霊を仰ぐ神権政治であ

る。

つぎの『国語』の例では楚語下篇にて古代祭祀と神官

の様子が観射父によって説明されている。前500年頃

のことで孔子が在世のころである。

「昭王が大夫の観射父に問う、『周書に《重と黎に命じ

て天地の通じるのを断たせた》とあるのはどういうこと

か。もし、このことがなかったら人間は天に昇ることが

できたのか』と。応えて言う、『その意味ではありませ

ん。昔は人と神の関係は乱れていませんでした。民の

中で明朗で二心がない者、またよく厳粛忠誠で、上下

の義に親しみ、神聖さは遠くまで明らかで、見れば光り

輝くようで聞けばよく透徹する。このような者に神は降

ります。この者を男は覡、女を巫といい習わしておりま

す。彼らに神々を祀る位置と位牌の席次を決めさせ、

犠牲と祭器と時に応じた祭服を用意させます。そして、

先代聖王の子孫の中で徳行があって、山川の名前、

宗廟のこと昭王穆王の世系のこと厳粛な勤めと礼節と

威儀の規則と容姿の飾りと忠信と祭祀の服これらを知

り、神に恭しい者を祝官に任命します。そして、名族の

子孫で四季の産物、犠牲の規格、玉帛の積類、祭服

の使い方、祭器のこと、位牌の席次、びょうぶ扇の位

置、壇場のこと、上下の神、氏族の源を知り、心は伝

統に従う者を宗伯(祭祀の礼官)に任じます。こうして

天地神々そして庶物の官を設けて五官と称し、各々そ

の秩序をつかさどって乱れません。このようであって民

に忠信あり、神は明らかな徳あり、民と神と勤めを異に

し、敬して穢れません。そうすれば神は民に嘉ものを

降ろし、民は供物を捧げ、災禍至ることなく必要が満た

されました。云々」

このような祭りは殷王朝の時代からのもので甲骨文に

神託のさまを見ることができる。

3 孝

孔子は孝を重んじた。孝とは親に仕えることだが親の

親である祖先にも仕えるのである。祖先を祭ることでも

ある。儒教は三年間の喪を唱えていたが、三年を過ぎ

てしまえば位牌も捨ててしまうことはないだろう。祖霊

となった父を三年以降も祭ることは間違いがないだろ

う。それが『論語』の「礼をもって喪し、礼をもって祭る」

にあたる。孔子は政治・道徳を説いて宗教でないと云

われようが、その政治は祭政一致の宗教政治に外な

らない、それが礼を興す意味である。そして宗教はキリ

スト教でもイスラム教でも仏教でも道徳を説くものであ

る。仁義礼智信は儒教が説く道徳であるが、孝は宗教

道徳そのものである。孝とは中国の宗族社会から来て

いいる宗教徳目だろう。宗族とは男系の血族の大家族

制度である。血統を絶やさず代々の祖先霊を祭るのが

子の務め「孝」であるだろう。それが『論語』のセリフ

「孝は鬼神を致す」なのである。孝は殷王朝の時代に

もさかのぼることができる。殷の主神は帝・上帝とよば

れた。それは祖先神と解釈されている。実際、殷王は

歴代の祖先王の霊を祭っていたことが知られている。

上に引用した「宗周の鐘の金文」も周王が祖先を祭る

ものである。 おなじく一般の民も祖先崇拝の信仰を抱

いていた。それは『詩経』に見ることができる。

無衣 秦風

なぜに衣装がないものか

祖先の装束身にまとう

王が戦い始めれば

我も矛を携えて

祖霊とともに戦わん

云々

庭燎

今何時だろう 夜はまだ深い

霊廟の庭にかがり火燃え御先祖がおいでになった

馬車の鈴リンリンと

今何時だろう夜はまだ明けない

霊廟の庭にかがり火ひかり 御先祖がおいでになった

馬車に一族の旗ヒラヒラと

権与 秦風

我ら一族に賜われ 壮大な祖廟の霊よ 

ここに降りて もてなしを受けよ

歌い祈る 我らに福禄を与えたまえ

我ら一族に賜われ 四つの供物のがあります

ここに降りて 飽きるまで受けよ

歌い祈る 我らに福禄を与えたまえ

4 礼楽

孔子は政治家と云うより学者のようである。唯物的で

はなく、唯心的で精神主義の政治論を語る。弟子に政

治を問われると「まづ言葉(名)を正そう。」と答えて、

弟子に回りくどいのではないでしょうかと云われた。言

葉を表記する漢字の元の甲骨文は卜占で神託を伺う

ものとして生まれる。文字などは神官が専ら操るもの

であった。昔は識字階級=学者は神官・僧侶であるの

が世の東西を問わないことであるようだ。孔子は礼楽

を尊んだがこの礼楽とは祭りとそこで奏される宗教音

楽だ。ヨーロッパでの音楽の源は教会、宮廷、町中に

あった。アカデミックな音楽は教会、宮廷で生まれたが

人気を気にしなくてよい教会音楽はアカデミックな音楽

の発展にとって役割が大きかっただろう。聖書はラテン

語で書かれていたのでラテン語が公式な文字になっ

た。ラテン語を読み書きできるのもまづ僧侶である。イ

ンドでも事情は同じで僧侶階級バラモンがサンスクリッ

ト語を操った。インドの古典舞踏は神への捧げ物として

神殿で演じられた。孔子が学と礼楽を尊ぶのは僧侶階

級に似あっている。礼楽の実例は韓国で李朝の代々

の王を祭る「宗廟祭礼楽」を毎年5月の第4日曜日に観

ることができる。

5 孔子の門人達

孔子の言葉と伝えられているものは同時代の著名人

の晏子や子産とくらべると天文学的量になる。その言

葉のどれが孔子本人のものか本当は分からない。孔

子が祖先霊や天神を信じていなくて、居ますがごとく礼

儀を行えとしたドライな形式主義者だったとしても、孔

子を継いだ弟子達が周王朝を研究するとその政治は

祭政一致の宗教政治となった。

孟子は有徳の仁者に武力をも無力にする威力を与え

ていた。それは天は有徳者に味方するから仁者は無

敵だと云うのだ。また天の意志と民心が感応して、王

家を取り替えることができる革命を推奨した。孟子の天

への強信は超自然的な天人合一観である。

秦の始皇帝は封禅の儀式(天子が天地の神を祀る、

または天神と直接交わることのようだ)を行おうとして、

儒者に相談した。

漢が起って日も浅いころ、劉邦は儒者叔孫通に漢の礼

を作らせた。儀式を実際に試してみると、劉邦は大変

満足するものであったので、叔孫通を正式に祭祀儀礼

を司る「太常」に任命した。

漢の文帝の御代、儒者の公孫臣が「今は土徳の時で、

土徳に感応して、黄龍が現れましょう。今こそ暦、官服

の色合いの制度を改めるべきです」と五行論で進言し

た。五行論の五徳の服色にまた土徳の暦に改めること

は占星術・天人感応思想である。儒者の預言どうり、

十五年に黄龍が成紀の地に現れる。それは天神が文

帝の徳政に感応して吉祥を示して文帝の統治を承認し

たことになる。これによって文帝は公孫臣を博士に取

上げ、「異物の神出現して、成紀の地に現れる。民に

害なく年は豊作である。朕は親しく上帝諸神を郊外に

祀ろう」云った。

さらに、儒者新垣平は望気(雲気を占う術)をもって文

帝に御目通りし、説いて「渭陽の地に五帝の廟を建

て、周朝の失われた鼎を出来させたいと思います。き

っと名宝、玉英も現れるでしょう」と云った。十七年に

は、またしても玉杯を得ることができた。刻字して「人

主、寿を延ぶ」とあった。ここにおいて文帝は年を改め

てまた元年として、天下に大いに酒宴を開かせた。こ

のように儒者の公孫臣・新垣平は天人相感の神秘思

想で文帝に取立てられたのである。天人相感思想では

黄龍のこと、周朝の失われた鼎のこと、玉杯を得ること

は、聖天子が地上に現れたことを天が徴シルシをもっ

て示した吉祥である。新垣平は博士学生に六経(儒教

の経典)から採取して古へに倣う王制を作らせ、巡狩

封禅の祭儀を協議させたとある。周王朝の祭政政治を

復興しようというのである。

漢の武帝の御代、武帝は若くして位につき、鬼神の祀

りを恭しくした。それで儒術に魅かれ、チョウワン・王蔵

等が儒術の学者を召した。武帝は古へを考え明堂を

立て諸侯と政マツリゴトしようと望んだ。また巡狩し封

禅し暦制度を改めようと計画した。この時代も儒者等

は皆、天子が封禅し、五徳により制度を改める祭政一

致の政治を望んでいた。明堂とは何か、武帝は太一・

五帝・高祖を祭っていたので天神・劉邦の霊前で劉氏

諸侯王と政マツリゴトする朝堂であるだろう。巡狩とは

神々に供える犠牲獣を狩ることである。

また、武帝は儒者董仲舒を登用して政策問答を交わし

た。

武帝の問い

天命を受けた徴はどこにあるのか。

董仲舒の答え

父母になつくように民心を得ると受命のしるしです。

武帝の問い

天の警告の災異は何によって起こるのか。

董仲舒の答え

淫逸にふけり徳教を捨て刑罰を用いて当たらなけれ

ば、邪気を生じ災異が起こってくる。

武帝の問い

何をなせば天の祝福を受けられるのか。

董仲舒の答え

天の祝福が現れないのは民が教化され正されてない

から。大学を立て里に学校を立てることです。

武帝の問い

周王朝は高楼を設け、朱塗りの盾や玉つきのマサカリ

を用い、舞楽を朝廷に連ねていた。良い玉には飾りを

彫らないと言われるがまた、飾りがないと天子の徳を

助けないとも云う。朝廷は倹約質素がよいことか豪華

華麗にすることが良いことか。

董仲舒の答え

礼法は尊卑を明らかにするもの。受命の天子がまず明

らかにするものは暦を改め官服の色を変えることで

す。倹約に過ぎることは中庸を得たものではありませ

ん。

董仲舒も天人相感・天人災応神秘思想を武帝に説い

ていたのである。董仲舒は自ら雨ごいの呪術もこなし

た。

また、外戚の儒者王莽は「符命」なる神託を得、漢王

朝に取って代わり新王朝を立てた。そして『周礼』の祭

政政治を復興しようとした。その王朝を滅ぼした劉秀

はまた儒教の経書を神秘化した『緯書』の預言の書に

よっていた。こうして後漢が成立した。

以上、儒教はいつの時代も個人には祖先を祭り父に

仕える道徳を説く宗教であり、 国には祭政一致の神

権政治また暦を調える天道(占星)神秘主義また呪術

で、くわえて富国強兵などの唯物論ではなく、君臣の義

などの道義の唯心論を説く宗教であることが分かる。

儒教とは宗教の中では、道義を教えるシャーマニズム

と分類できるだろう。

このHPは儒教の葬儀を述べる。
儒教の葬送儀礼

追記

儒教は宗教でないという儒者は多い。なぜそんなに宗

教であることを嫌うのかと疑問に思う。儒者の云うまま

によると中国は非宗教的文明なのだそうだ。でもそれ

はおかしい。周王朝では祭祀儀礼が行われていたは

ずです。それは周に続く歴代王朝も変わることはなか

った。儒者自身が天命を云い続けていたし、緯書も著

された。儒教の外にも墨家は天意を唱えていた。『詩

経』の民間信仰はシャーマニズムだし、後の民間信仰

の道教もシャーマニズムと呪術に満ちている。それが

なぜ非宗教的文明と言えるのか。『論語』の一部の言

葉を拡大解釈しているのでしょうが、それは井戸の中

から空を見上げているようなものだった。山下龍二氏

によると朱子学が発端のようだ。朱子は仏教と道教と

争い儒家を儒学として政治面・道徳面を強調しての対

抗した。朱子学が正統となってから以降、儒者はそれ

に習っているのでしょう。

おわり

中国雑感

1文明の伝統

人生のなかで中国をなんらかの意味で感じたのは旧

宅の仏壇の上の古びた額に「宇安」と“漢字”があった

ことからだろう。子供のことだから左右どちらから、どう

読むのか知る由もなかったがなぜか気掛かりだった。

今読めば「安らかな宇宙」のようだ。書体は王羲之風

だった。中学生になってからは姉が買った本で中国の

農民の生活を描いたパールバックの「大地」を借りて

読んだことだ。高校では漢文で「老子」に惹かれたこと

が印象に残る。そのころは文化大革命が始まって中国

ニュースは騒がしい時代であった。そんななかで、わた

しのなかで中国が特別の意味をもつようになったのは

「老子」との遭遇からに外ならいだろう。中国への好印

象は老子から来ていた。それから歳月が流れ、年とと

もにますます老子の世界観に近付いていったが中国

からは距離が出てきてしまった。老子に近付くと中国

から疎遠になった。それは老子と中国が近くなかった

からだ。中国はやはり儒教のようだ。公羊春秋学の

「百代の後も赦さない」のが中国であり、老子の温和な

言葉「大怨を和するも余怨がのこる。どうして善いこと

と言えようか。債権をふりまわして人を責めるようなこと

はしない。」のようにはいかないのである。儒教の中国

は過去に捕われる。このような和解できない考え方で

は救われることがない。 今日中国ではマルクス主義

だけでなく伝統を見直そうとの動きがある。よいことだ

が、それがまた儒教に返るというのである。なぜ?諸

子百家に返らないのだろうか。儒教のみに返ればまた

周に返らなければならないし、尭舜にもどらなければ

ならない。過去に下るばかりだ。「(古きを)述べて作ら

ず」では未来を開く思考が生まれてこない。また、儒教

では「天高く地卑し。」とし、天地を身分の上下関係の

例えに使う。対して、法家は「天は被わないものはな

く、地は乗せないものはない。」と天地を公平・無差別

の例えに使う。王朝政治・封建体制から脱した今日の

民主主義の世界観は法家が適しているだろう。ところ

で法家と云えば韓非子が大成したと云われる。そして

『韓非子』の思想が批判の対象にされる。でもそれは

違うのではないか。韓非子は韓非子で同じ法家の慎

到とも違うし、管子とも違う。だれが韓非子が法家の集

大成者だと云っているのか? 言わずと知れた儒者で

ある。それは『韓非子』には過激な思想があるので法

家を罵倒する対象に都合がよいからで『管子』など

は“穏健”なので責めにくい。それで『韓非子』ばかりを

取り上げる。儒教は忠孝・仁義の精神主義の主張を説

いた。代わって法家は富国強兵の唯物的主張をした。

でも、精神論を全く説かないわけではない。この富国

強兵の主張が最も現れるのは『管子』であるので、法

家の代表をあげるとすれば管子が最も適している。と

かく非難され誰からも悪玉扱いされている法家だが、

公正が法家が説いた理想だった。当時の中国では部

分的にしか取り入れられなかった。それが理想なるも

のの運命だろうが…。理想と云えば儒教だけが語っ

て、世の中に受け入れられなかった原因で、悲劇の主

人公のように云われるが、諸子百家も理想を掲げてい

たのである。だから諸子百家に返ることが大切なので

ある。多くのより好い理想を今の中国のために見出せ

るからである。儒教のみに偏ってはまた2千年らいの

過ちを折り返してしまうことになる。法の下の平等を理

想とした法家の他にも、墨家は戦乱の世に「博愛反

戦」の理想を実現すべく奔走したことはよく知られてい

る。墨子の博愛反戦思想は孔子の仁(=身内愛)とくら

べて何と崇高ではないか。もし将来、人類が戦争文化

と決別できる時が来るなら、墨子の言葉は戦争放置の

宣言文に引用されるに十分な資格がある。また、宋栄

子がいた。彼は人々が平等であることを表すために上

部が平たい帽子をかぶって象徴としていた。彼は新た

な社会のビジョンを示して「 人は社会に煩わされること

がなく。しかしまたその社会に反目することもない。見

栄を張ることなく、人々の関係は対等であって、 他人

を軽くあしらい虐げることもない。天下は平和で万民の

生命が脅かなれない。誰もが生活の必要を満たすこと

を願っているだけで、それ以上のことは望まない」と平

等と寡欲で友愛した社会を説いた。これは人類の性善

説であり、宋栄子と面識のあった孟子の性善説はここ

から出ているのであろうか。つぎに、子華子は乱世に

人命を第一としてかの「両腕(身)は天下より重い」と語

った。それは身体のことだけではなく、精神的にも虐げ

られないことで、抑圧された生は死に劣ると考えた。彼

こそは個人の尊厳を説く、好い意味での個人主義者で

ある。つぎに、名家は“両可の説”と云う言論の自由を

掲げていた。つぎに、老子と慎到が“王侯、無為にして

民は自ミズカら正し 自ミズカら富む”と主張していたの

は民主主義・自由主義に通じるものがある。19世紀、

フランスの歴史学者トクビルはアメリカの民主主義を見

てこのように書いている「政府が口出ししない結果、個

人が自分自身で何でもやる習慣が付き、他からの助け

を求めず、自分で考え、自分で対処する」と。

中国で近代化を勧めようとすると「崇洋媚外」との呪文

を浴びせられるそうだ。西欧に媚び、中華の伝統を損

なうものだと。その伝統とはどの学派の説なのだろう。

上に見た諸子百家の古への説は「洋風」なものもあり

はしなかったか? 中華の古文明はどこに探せばいい

のか?

2尊法精神

漢王朝で著された『史記』は漢民族・漢人の出自を黄

帝にもとめた。それは漢王朝が五行論の土徳をあらわ

す黄色であったからかもしれない。しかし、中国をアジ

アの大国たらしめている現在に匹敵する領域を始めて

統一して中国なるものを出現させたのは漢のまえの秦

王朝であった。それで中国外では秦の発音チャイナ・

チャイニーズが呼び名となった。国名・民族名が他称と

自称で異なるのはよくあることである。他称の場合は

往々にして蔑称であることが多いが、チャイニーズは

そうではない。しかし、中国人は漢族と呼んでも秦族・

秦人と呼ばれることは好まないだろう。それは儒教を

国教としてきた中国人自身の事情による。日本人がチ

ャイナの発音からきた支那人と呼ぶとまた反発され

る。それは異なる問題がからんでいる。

さて、中国を中国たらしめている黄河流域と長江流域

にまたがる国々は百ほどもあったが、それは百の民族

がいたことにほぼ等しかっただろう。こんな広大な領域

に一民族が初めから分布していることなどとはないか

らである。戦国時代の離散融合をへて七つの大国がで

きた。現在ヨーロッパはスペイン、フランス、ドイツ、イタ

リア、ポーランド、オランダ、ブルガリアを数えると7つ

の国になる。日本はイギリスにくらべられ、ロシアは中

国の北の遊牧民の地にあたるだろう。秦国が六国を占

領合併して中央集権の秦王朝を建てたことは当時においては天下即ち世界を統一したことに他ならなかっ

た。始皇帝は古へのままに国を分ける封建体制への

要請を退け「国を立てるは兵器を樹てるなり」として統

合した一国制を選択した。始皇帝の石碑に「人跡の至

る所(皇帝の)臣たらざるはない」とあるのは人の住む

ところ即ち人間世界は皇帝の民となったと意識されて

いたのだろう。王に替えて皇帝と名のったことは世界

政府の元首の意味であろう。その世界政府観念は極

東アジアに册封体制をもたらした。地の果ての蛮族が

国を立てるなら中央の王朝に朝貢して臣従しなければ

ならない。さもないと世界に国が二つ並び立つことだ

から、戦さして世界政府の下に編入するしかない。周

辺国また韓国も李氏朝鮮の時代に册封体制に入っ

た。日本も一時期朝貢して末席を占めたようだ。「秦王

朝の下での世界平和」が、戦国の世を終わらせた始皇

帝の政治理念となった。しかし、そんな理念はまだ理

解されず、権力の一極集中は不満を増幅し、秦王朝は

内部分裂を起こした。秦王朝は一兵卒の陳勝が大沢

で空拳を振るうと権力の空白は白日の下にさらされ

た。一斉につわもの共がならび立ち、二人の壮士が頭

角を現したが、両雄並び立たず、相争うが平民出身の

劉邦が天下をオノが物とした。いよいよ天下が再統一

されると、戦いの論功行賞として封建分国が根強く期

待されていた。封建制の復活を求める発言は数数ある

がその一つとして、劉邦が祝いの酒席で敵将項羽は

天下を失い自分が天下を得た分けを問うと臣達が答

えた言葉は「陛下は傲慢で人を馬鹿にされる。項羽は

仁者で人を愛す。それでも陛下は城を攻めさせると攻

略者に地を与えて、天下と利益を等しくされる。この

点、項羽は賢者才人を嫉み疑い。戦いに勝っても功を

認めず、地を得ても与えようとしない。これが天下を失

う理由でした」と云った。この言葉は臣下たちの劉邦へ

の強要でもあったので劉邦は漢に封建体制を布いた。

しかし、皇帝となって権力を固めた後、劉邦は異性の

候王を次第にとりつぶし劉姓の王と取り返っていった。

晩年、功臣との間に「白馬の盟」として封建体制の権

力分配の盟約を結んで崩じた。時移り3代目の文帝の

ころになると后に親族を宰相に取り立ててくれないかと

懇願された。「白馬の盟」では宰相職は功臣の列候の

ものと定められていたので、文帝は久しく考えていた

が、「天下はわたしが私ししたと思うだろう。」と、やっと

思いとどまった。一代下って景帝になると、その無理が

通されて、抵抗を示した列候の権利の代弁者周亜夫

は獄中で死んだ。さらに諸候を締め上げて権力は再び

集中しはじめた。さらに一代下り武帝期には目の上の

たん瘤の文帝の后が没すると武帝の一身に帝国の権

力が集まるようになる。そんな武帝の御代、帝の一存

で儒教は国教となった。広大な領域の国土を統治する

ための官僚体系は秦王朝が形を与えていたが、秦を

継いだ漢もまた官僚体系によらなければならなかっ

た。秦でもすでに文書行政が行われていたので、後に

官場とも呼ばれる職域は識字階層には第一番の処世

の場となった。その職域に入る資格を儒教のみが供与

するとなると、教師としての儒学者は下にも置けない

権威を獲得していった。儒者の威信もいやが上にも高

まっただろうし、他の学派は顧みられることは少なくな

っていっただろう。こうして利録の道としての儒教が中

国社会に浸透していった。後に、科挙の制が整備され

ると、有為の青年たちはさらに儒学の習得にのめり込

んだ。その儒学とは四書五経なる儒教の教典でその

内容は儒教の祖と高弟の精神訓を綴ったものがほと

んどである。青年期にそれを丸暗記し作文修行に情熱

の限りを注ぎ込んだ官の徒が王朝の主要ポストを占め

た。そう考えた若いころの私はあのような中華帝国が

「友あり、遠方より来る」や「利を云わんや、仁義あるの

み」のような精神訓のような知識だけでどうやって運営

されていたのか不思議だった。でも現実の中国の王朝

は儒学のみで運営されているのではなかったのだ。表

門は儒教でも裏門には法家がいた。舞台のうえでは儒

者が「仁義仁義」とセリフを唱えているが、舞台裏では

法家が裏方として王朝の舞台装置を切り回していたの

だ。儒者官僚の下には法律を修めた下級官吏がつい

ていて実務は彼らが処理していた模様である。漢の成

帝期の朱雲によれば「太守・漢吏は、三尺の(木簡の)

律令を奉じてことに従うだけだ。儒生らの云うところの

聖人の道は、どうにもしようもない。」と云うものがあ

る。漢代においても実務は法家の官吏が処理していた

のである。儒教がまるまる国を動かした時代は王莽の

新王朝と李氏朝鮮としてよいだろう。{儒教のまるまる

の政治がどのようなものになるかは朴 泰 赤赤著「醜

い韓国人」KAPPA BOOKSを参照されたし}李氏朝鮮

には朱子学のみで法家はいなかったようだ。王莽は儒

教の理想の教理の禅譲で国を建てたが、朝鮮の太祖

李成桂は儒教官僚に推され武力を用いる易性革命で

位につき儒教を国教とした。ところで、朝鮮の国号は明

の皇帝から賜ったものだそうだ。朝とは朝貢のことで、

鮮は中国が周辺民族を呼ぶ時に付ける虫、獣、魚の

なかの漢字が当ててある。先の王朝の高麗朝の麗は

「うるわしい」だからこれは韓民族の自称なのだろう。

では日本を表わす「倭」はどうだろうか。人偏が付いて

いるのは中国の倣いではないが。しかし意味は「した

がうさま」「従順なさま」であるので、やはり中国人が付

けたの呼び名だろう。なぜ人偏が当てられて人間扱い

されたのか?? 大和人はのちに「日の本」を自称とし

た。半島では先の王朝の高麗朝を倒すのに、武官であ

った李成桂は孟子が奨める易姓革命によった。儒者の

あるところどこでも革命と名付けられる“政変”が起こ

る。孟子流の革命は武力は使うほどのこともないのだ

が、李成桂は武力クーデターで倒した。王位に登ると

自らの行いに鑑み、こんどは孟子の教えそのままに、

利を軽蔑し「富国強兵」政策を取らず武官・地方の富

強を押さえた。それで、秀吉の朝鮮征伐ではたちまち

首都を落とされた。儒と法のダブルスタンダードの宗主

国の明が援軍を出して秀吉を退ける。時移り、欧米列

強が極東に進駐するようになると、日本では儒教の精

神訓を読んではいるが兵上がりの君主臣下は欧米の

「砲艦強兵」の意味をただちに理解した。くらべて、中

国・朝鮮では「仁者は無敵なり」と精神訓のままに応じ

たもようだ。しかし、八旗の騎兵は鉄砲の硝煙の敵で

はなかった。やがてしばらくして韓国と日本は合併し近

代化の種をまいた。朝鮮半島北部には日本内地のど

の地域にも優る工業インフラが築かれていたそうだ。

日本は中国と戦さしたが援軍アメリカに敗退して後、中

国と韓半島北部はマルクス主義化することになった。

現実となったマルクス主義は古代王政とさしたる違い

がなかった。王・皇帝と書記長・主席の間にさしたる意

味の違いはなかった。ともに法のらち外の暴力をもっ

ていた。中国では2千年来、法は礼に劣る規範とされ、

気ままに運用されたので、権力者にも、国民にも尊法

精神はいまだに育っていない。では中国で近代産業が

根ずいているかといえば、ソ連からいくらかの殖産を

受けたようだがソ連は満州に日本が持ち込んでいた工

作機械などを中国から立ち去る時に持ち出していたよ

うなケチだからどれだけ中国の近代化を助けることを

したかは知れない。また文化大革命の混乱と経済の

停滞があった。これまでの間ほとんど近代産業は根付

いていないのかもしれない。そのあと、トウショウヘイ

の「改革解放政策」が始まったのである。日本の多額

のODAや鉄鋼技術の供与は殖産に寄与しただろう、さ

らに外資の流入、留学先からの学生の帰還、技術者

の帰国、これらが中国に近代を根づかせているのか? 

解放政策から25年、現在の中国は破竹の勢いで伸び

ている?がそれは産業をどれだけ生み出しているのだ

ろうか。しかし、尊法精神がないなら社会への信頼感

は生まれないし、また政策のいつものような気ままな

方針転換では社会がいつまでも不安定である。中国に

とって尊法精神を根付かせることのほうが殖産より困

難なことかもしれない。台湾は日本が近代化の種をま

いたが敗戦退出後、国民党が入植して、言論封じの

「白色テロ」を行い、2千年来の法を超える政治慣行を

持ち込んだ。その後、台湾人の努力で法秩序は再構

築されたようだ。近代経済は法の保護の下でないと継

続できない。中国経済が景気後退期に入った時、中国

の官民が法秩序を遵守して行動できるなら日本企業

の”経済災難”とはならないだろうが?。

3チャイナ・インパクト

近頃、経済躍進著しい中国だが、指導者・江沢民の反

日政策は中国青年に日本増悪心理を植え付けてしま

った。戦時中でもないのに激烈なプロパガンダで民心

をあおっている。獅子がトヨタ車に敬礼するコマーシャ

ルは中国を侮辱していると非難された。また、日本の

百貨店が「ありがとう」と大文字で「謝謝」と小文字で広

告幕をはり出すとこれも侮辱したと非難された。しかし

どちらもコマーシャルを発案したのは中国人の従業員

で日本人は関与していなかったそうだ。こんなことでは

いつか来る不況期には日本企業への風当たりが心配

される。

現代中国政治史を体験してみるとそれは過激にすぎる

との感慨を抱く。かの老子の無為の治から程遠く、現

実から偏っていて、感情に流されてその場の効果しか

考えていないようだ。中国政治は稚拙だ。権謀術数を

やっているつもりだろうがいつも自滅している。伝統政

略の“君心秘匿の術”をつづけていれば中日戦贖罪

派・孔子崇拝者の多い日本だからもっとODAをせしめ

られたのに、ここでも本心をばらして失敗した。バブル

後の日本はもうおしまいで利用価値なしとでも早合点

したのだろうか。日本の侵略のどう猛さ・勇猛さをあれ

ほどまでに宣伝していたら、日本人は恐ろしい→日本

人は強い→日本と戦争したら負ける、との恐怖感を植

え付けて愛国教育に逆効果になっているのではない

か。ここでも失敗を重ねているのかもしれない。

日本は対外国関係の経験が乏しいからか外交がうま

いとは言えない。モンゴル帝国が拡大伸張していた時

代、日本にも国交をもとめる使者がきた。時の鎌倉幕

府は問答無用で使者を切り捨て返答もせず無視した。

この対処はどう見ても外交得手とは言えないだろう。

世界の諸国を相手にしていたモンゴルがこの外交に怒

ったのも当然かもしれない。それで元冦の役となった。

モンゴルの力は東南アジアへもおよんだ。タイは外交

上手のようで、巧みな応対で王国を保った。それにた

いしミャンマーはモンゴルと正面から戦った。その結

果、悲劇的な犠牲を払って征服された。日本の取った

道はミャンマーに通じているようで、地の利が日本にな

かったらおなじ惨劇を味わったかもしれない。中国が

走り出した今、いまだ近代政治から遠く王朝制を引き

ずっているような軍事や国家意志の決定システムのな

かで、日本に悪意を抱いたまま富国強兵を達成した強

国となるのか、または三国志のような動乱を演じるの

か、どちらにしても日本は外交ベタではいられない。

4 孔家店の改築工事

中国の教育次官は孔子研究院式典で「孔子は中華民

族の誇りである。伝統文化の象徴である。民族精神を

国民教育の全過程に入れなければならない。」と演説

したそうだ。江沢民氏は以前、国は法によって治めると

宣言していた。それならもっと他の人物の名前も民族

精神の象徴として挙げなければ都合が悪いのではな

いのかな。例えば管仲は誇るべき名として不足はない

だろう。孔子一人では近代以前となんら変わりはない

ではないか。中国は西欧近代を受け入れるつもりはな

いようだ。リー・クワンユー氏も近頃中国は儒教の伝統

があると云いだした。法家のような政治スタイルのリー

氏にして祖先帰りしてしまった。中国共産党にとって儒

教は都合がよいだろう。現代で法治主義をとるなら、三

権分立で政権は司法の制約をうけることになるから

だ。ハドソン研究所は中国の経済発展を予言したが、

また超大国にはなれないとも予測する。現代の先端の

産業社会は自由主義的な体制でなければ実現できな

いのだそうだ。強制力のある独立した司法機関が個人

の自由と財産権や契約の履行を保証するものではな

いと十全に機能できないとされる。近代化が世界に広

がって以来、近代法を取り入れた国ではないと十分の

経済成長を遂げられていないそうだ。旧来の王政など

の国々が近代化に十分に適応しようとしなのは権力の

地位にあるものや旧来の経済的権益の所有者が特権

を失うことに同意しないからなのである。中国共産党に

とっても孔子の体制のほうが彼らにとって温情がある

だろう。法家は公正を理想とするので薄情過酷に彼ら

の特権を奪ってしまう。とどのつまり、孔子のみを崇め

ているのであれば、二千年来の歴史をこれからの中国

はまた、折り返していくだろう。

近ごろ儒教圏の経済発展が著しいので儒教が近代経

済に適合するような意見がある。しかし、台湾・韓国の

成長が高いのは日本が近代法と社会インフラを植え

付けていたからに外ならないだろう。香港・マレーシア・

シンガポールはイギリスの植民地であった。イギリスは

植民地主義で工業インフラなどは与えたかったから商

業や中継貿易で発展しているのか。フイリッピンはアメ

リカが支配したが、大統領制を執っていても経済は低

迷しているのは植民地経済のままであるからか。

5 徳治と法治

儒教の徳治と云うと、日本では道徳政治と考えられが

ちだがもう一つの意味がありそうだ。徳治は仁政とも云

うが、中国では徳は得に通じているとされる。精神的な

意味だけではないようだ。徳・仁は「恵み」「ほどこし」で

代償のない一方的な便益供与であるらしい。くらべて、

法治も賞を与えるが、それは論功行賞で功績にたいす

る代償として与えられる。無償のめぐみ とは違うので

ある。中国人・儒教は無償のめぐみを施すものを人格

者とするのである。そして無償の施しは恩義である。施

しは代償を同時には求めないが恩義感をうむ。その恩

義はいつの日か条件が整った時に、例えば施した者

が窮地にあるとき施された者が「何らかの力」があれ

ば恩返しを果たすのである。曹操が関羽を捕虜にした

時、曹操は臣とならないかと命は助けた。後、関羽が

曹操を捕虜にした時、また逃がしてやった。公務から

は殺さなければならないのだが私恩が優先されたので

ある。施しは私的行為としてなされる。慈善行為のよう

なものである。当事者同士の私的関係である。中国

人・儒教はこんな私的人間関係を尊ぶのである。  徳

治とは恩と返恩の個人的関係を君主がそれぞれの臣

下の間に結んで権力の中核を構成している体制と言

えるかもしれない。

中国は儒教が国教になってからも官僚と賄賂は一体

のものであった。利を蔑視するはずの儒教官僚は賄賂

をいかに意識していたのか。小役人も包み金をせびり

に来るそうだし、飲食店ではただ飯しを食っていくそう

だ。それは習慣化された施しだったのかもしれない。そ

んな施す民には何かあった時には特別の計らいで報

いるのが役人の仁義だったとも考えられる。施しには

おなじく恵みで応えるのが儒教官僚の仁政だったのか

もしれない。

6 王道と覇道

日本の高名な経営者が中国の指導者は「覇道」をとら

ないと言明した月刊誌に書いていた。疑うことを知らな

い純情は子供の徳ではあるが、大人になれば人間性

の複雑さも知らなければ精神的未成熟と云われても仕

方がない。「覇者」とは元は中国では尊称であったのだ

が、孟子が武力による政治と定義し「王道」を道徳仁義

による政治と定義したことから、武力による威圧と侵略

行為を現すことになった。王道に関しては昔、孫文が

日本は欧米の真似をして覇道をとるのか、それとも東

洋(中国)の王道の道を歩むのかと迫ったことがあっ

た。孫文の歴史観では中国は今も昔も王道をとってい

るらしい。では中国の歴史書を開いてみよう。その王

道とはいつの時代の何を指すのか調べてみよう。殷か

ら周へは武力革命である。周から秦へは春秋戦国の

世である。秦から漢へは劉邦と項羽の武力抗争であ

る。漢から晉へは三国の戦国時代である。晉は七王の

乱で衰退していく。どの時代も武力の二字ばかりが目

について仁義道徳のくねくねとした四文字は見当たら

ないが? よーく、目を凝らしてみると「禅譲」の二文字

が見えた。これが王道なのか? 王様が有徳の家来

に玉坐を譲って臣下の身分に降格するのだそうだ。そ

んなことがどの時代にあったのかと調べると、尭が舜

に国を譲った時代は禹王の夏の時代の前のことだそう

だ。夏と云えば殷の前で紀元前1627年に滅んだとの

伝説がある。その夏の前なら尭も伝説らしい。あまりに

も話しが過去にさかのぼってしまったから、もっと現実

味のある時代の例はないのか? 王莽なる有徳の者

が前漢の劉氏の王から国を譲ってもらった史実がある

そうだ。その国は新と呼ばれたが15年で滅び、再び劉

氏の王が返り咲いて後漢を再興した。有徳の王の国

が15年で滅びたとは不可解ではないのか、暴君の秦

王朝も15年で滅んだのだから。道徳の国と不道の国

に差はないのか。そしてまた、徳が下降したはずの劉

氏が王の位に返り咲いた。この禅譲は道徳の問題だ

ったのか?? つぎに魏から晉へも曹氏の王から臣下

の司馬氏へ禅譲が行われたそうだ。でも、聞くところに

よると曹氏の王が司馬氏の権臣たいして、陣太鼓を打

って自ら出撃し返り討ちにあったそうだ。それでも殺さ

れた王の後を継いだ曹氏の王は司馬氏に国を譲った

そうだ。禅譲は道徳が行われるはずなのに武力が含ま

れているのはこの禅譲も道徳の問題だったのか?? 

また、外交史には册封体制なる武力によらない国交が

あるそうだ。これが王道なのか? それは朝貢外交ま

た朝貢交易とも呼ばれ、中国の周辺外国は中国の皇

帝に臣下として仕えることで武力を介しないで国交を

結べるものらしい。それなら孫文が王道を唱えたのは

日本も西欧列強も中国に臣従すれば中国と付きあっ

てもらえると云うことか。それは中国にとっては都合が

良いかもしれなりが、臣下の身分の日本や欧米は国

益や主権を守れるのか。

中国の歴史から知ることができる王道とはこんなもの

だろう。覇道のもう一つの意味は「富国強兵」のよう

だ。富国強兵がなぜ悪いのか。「貧国弱兵」がよいの

か。これでは治安の維持もままならないし、外国から

のあなどりを招くだろう。

「衣食足って礼節を知る」(管子のことば)これが政治

の第一番目の要諦である。政治は国民の全体を対象

にするものだから、大衆の人間性に適ったものでなくて

はならない。「なんぞ利を言わんや、仁義あるのみ」が

王道か?「貧にして道を守る」は気高い理想の教えと

漢文の読書界では崇められているようだが国民大衆

のなかで何%が実行できるだろうか。聖人様の顔回く

らいしか実行できない。愚民は貧すれば鈍するもので

ある。3年の喪などは人間の生活を知らない机上の精

神論である。これらは政治が国民に課す課題ではない

だろう。

おわり