道家の歴史 20 漢代
ああ、仁なるかな!
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(3)文帝の経済対策1
高祖は秦漢の間の8年に及ぶ戦乱のあとの農業の復
興のために政府の経費を押さえ抑商重農主義の政
策をとった。高祖の時、蕭荷は宮殿/未央宮を建て、
恵帝呂后の時、首都城郭を造る。中国では国を興す
ことを都を建てるとも表現するほどだから、国としての
インフラを整備したことになるのだろう。商人の租税は
重くして困窮させた。農民の負担を軽減するために租
税を軽減し、諸候国で賦役(労働力提供の税)が多く
なりがちなのを押さえ経済復興を計った。
これを受けた文帝の経済対策はいかなるものであったか。
老子57章
「我無事にして民は自ミズカら富み」これが黄老道家の経済思想で無産平民集団が戦乱
の中から興した漢初の政治に、道家が選ばれた主因
だろう。
漢代の黄老道家の著作物/淮南子に「民は自ら富
む」思想が現れている。
詮言訓
「天には明アかりあり。民の暗きを憂えず。百姓戸を
うがち窓を開けて、自ら明かりを採る。地には財があ
る。民の貧を憂えない。百姓は木を刈り草を刈って、
自ら富を取る。」
ここにも民の自活力への信念が現れている。この句
は稷下の学で黄老道家の形成に係わり法家思想を
提供した慎到の言葉から引いたものであろう。
慎子 威徳一
「天には明るさがあるが、人の暗さを憂えない。地に
は財貨があるが、人の貧しさを憂えない。聖人には
徳があるが、人の危うさを憂えない。天は人の暗さを
憂えないのであるのは、扉を開いて必ず人が己から
明かりをとるならば天は無事であるから。地は人の貧
しさを憂えないのであるが、木を伐採し草を刈って必
ず人が己から富を取るならば地は無事であるから。」
この民の力を損なわせないためには、お上が無事、
無為、清静、無欲、樸を守ればよいと。黄老之術の伝
承者蓋公は儒説に思い倦んでいた曾参に具ツブサ
にこれを伝授した。老子の無為といえば何もしないこ
とと云われているが、冬眠中の熊じゃあるまいし、何
もしないでいても人間はお腹が減ってくる寝ているだ
けでは済むわけがない。それで老子の中に経済に関
わることを拾ってみて経済における無為の実際を確
かめてみよう。
「人を治め天に仕えるには嗇(節倹)に及ぶものはな
い。」59章
「民の餓えるのはお上が税を食むのが多いからであ
る。それで餓える。」75章
まず国費を節約することをあげる。それによって税の
軽減もできる。重税が民力を削ぐのは今も昔も変わりない。
「道によって人主を助けるものは兵によって天下に強
国となろうとはしない。兵は短期の帰還をよしとする。
将軍の留まるところにはイバラが生じ、大軍の後は必
ず凶年となる。」30章
老子の争わずの思想。たとえ戦っても短期決戦で経
済に負担をかけないことが清静無為。
「天下に禁制・忌み嫌うことが多ければ、民はいよいよ貧しくなる。」57章
老子は妙に現代的なところがあってこれもそうだ。規
制や不自由がないことで経済は活性化する。
「甚だしきを去り、奢侈を去り、傲りを去る」29章
無理をする、過ぎたことは経済も狂わせる、バブルのようなものだ。
以上、政府の節倹、税の軽減で小さな政府。和平、反
規制、無理に走らない経済的バランスの5つの無為を
老子から拾えた。つぎに黄老道家の関連文書から経
済に言及するものを探すと。
「お上が天のようでなければ下々はあまねく覆われな
い、心が地のようでなければ庶物をきっと載せること
はない。太山は愛憎を抱かないから、その高さをな
し。江海は細流を拒まないから、富かな水量をなす。
故に大人は身を天地に寄せて萬物備わり、心を山海
に置いて国家富む。」(韓非子大体篇)
公正は国を富ますと云う。
「聖君は法に任せるが智には任せない。条理に任せ
るが雄弁には任せない。公に任せて私には任せな
い。大道に任せて小径に任せない。このようである後
に我が身、無になり天下治まる。(中略)それで人主
でよくこの道を用いるものがあると、心労せず力を使
わないでも、土地自ずから開け、穀倉自ずから実り、
蓄財自ずから多く、云々」(管子 任法)
法治、公正な政治、大道を歩む正攻法。
「民を養うのに「公」によれば、民は素朴重厚で争い
なく財足り、身体を労せず功績が上がり、天地の富み
によって和同する。」(淮南子 主術訓)
私しない公正な政治。
「それで明主の政治では誅されるものがいても君主
が怒ってのことではない。恩賞されるものがあっても
君主が喜んでのことではない。誅されたものが君主を
恨まないのは罪に対応しているからで、賞されるもの
が君主を徳あるとしないのは功に応じているからだ。
民は賞罰がわが身にあることを知っている、それで功
業を努めて、お恵みを当てにしない。そこで朝廷は荒
れ果てて跡形もなくなったと思えるほど閑散で、(反対
に)田畑は手入れされて草もない。それで「最上の政
治では民は政府がただ在ることを知っているだけ
だ」。」(淮南子 主術訓)
賞罰があたる、功罪評価の公正さ。またそれによる朝
廷政治の安定簡素化。
老子53章を解釈して「朝廷の掃除が行き届いている
のは裁判沙汰で賑わしいからである。そのようであれ
ば田は荒れる。倉空しく国貧し。」(韓非子 解老)
社会に係争・犯罪が少ないこと。
「人主は静漠で騒がないなら百官も職務を遂行でき
る。例えば軍旗をみだりに振れば混乱するようなもの
だ。知恵も危急を安定化することにならない。尭を褒
めて桀をそしるよりも聡明を被って道を修めるのに及
ばない。静静で無為であれば天は時を与え、清廉倹
約の節を守れば大地は財を生じ、」(淮南子 主術
訓)
政治が煩雑でないこと。清潔倹約の政治。
「それで人主が珍獣奇物・狡猾安逸を好み、民力を愛
さず、狩に時季を得ないなら、百官乱れ勤めて財乏し
く、万民愁い苦しみ生業にはげまない。人主が御殿
や庭園・玩具や珠玉を好むと賦役・課税に節度がなく
なり、万民の力が尽きる。」(淮南子 主術訓)
君の奢侈逸楽で国富を浪費しないこと。それによる賦
役(労役税)・徴税が少ないことを云う。
以上、公正な法と政治、簡素な政治、秩序ある社会、
清廉倹約、賦役・徴税の節度の5つが拾えたが老子とくらべると、
1 君の奢侈逸楽で国富を浪費しないこと、清廉倹約、賦役・徴税の節度は老子の節倹、税の軽減にあたる。
2 公正な法と政治。
3 係争犯罪の少ない秩序ある社会。
4 簡素な政治。これは黄老道家の文献で強調されるところで、多大な国家事業の煩瑣な患ワズラいは官の職務を混乱させ民に迷惑をかけると説かれる。戦争も含まれる。
以上に老子の項目を加えれば
5 反規制
6 無理のない経済的バランス
7 和平このようなものが清静無為でこれをお上が守るならば
民は自活力を発揮して国は富み秩序が定まると説
く。「太上、下これ有るを知り、・・功成り事遂げて、百
姓謂う我自ら然りと。」この老子の説くところでは、最
上の政治では民はお上があることを知っているだけ
で、・・事を成し遂げて国興り、民はみな我が活動の
成果だと云うと。お上は出過ぎたことをせず、民間活
力を利用する政策であった。
2
では文帝の経済対策はどのようなものだったか。
史記 孝文帝本紀
「文帝、代国から来て位について二十三年、宮室・庭
園・愛玩犬馬・衣装など皆増えることがなかった。便
宜でない制度決まりはゆるめて民の利を計った。お
上はいつも粗糸の衣をめし、寵愛する慎夫人の衣も
すそ地に引き摺ることなく、トバリに刺繍も施さない、
敦朴(実質質樸)を示し天下に先んじられた。文帝の
陵墓は焼き物を用い、金銀銅スズで飾ることはできな
かった。土積みの大墳墓を造らず、夫役(労役税)を
省いて民を煩わせないことを望んだ。」
文帝は生涯、節倹を守った皇帝だった。無為の1の君
の奢侈逸楽で国富を浪費しないことに当たる。大墳
墓を造らず、労役税を省くことの外にも文帝期14年に
は「農を進める政策が不備である。田の租税を廃止
せよ」(孝文帝本紀)として、在位の間、田租を全廃し
たがすでに金のかからない小さな政府を実現してい
たからできたことだろう。
また、「文帝後期六年、天下に及ぶ日照り、イナゴの
害があった。帝は諸侯に入朝の勤めを中止した。ま
た山沢の狩猟採取の禁制をゆるめ、官の衣服調度・
馬の備えを減らし、宮廷の役人を減らし、国・村の倉
を開いて貧民に給し、民の爵位の売買を許した。」
(孝文帝本紀)
経済困難の時は救済策と政府のリストラを進めて財
政負担の軽減に努めた。
^
「便宜でない制度決まりはゆるめて民の利を計っ
た。」このことは無為の5の反規制に当たるが、文帝
期十二年「帝、天下に臨み、関所の禁を除き、橋梁を
通じ、遠近を一つにする。」(文帝本紀)と記されてい
ることなどを指すのだろう。民間の自由経済を促進す
る政策である。
また貨幣を民間で発行するのを禁じる盗鋳銭の令を
止めたことが、漢書 食貨志下にある。劉邦が漢を立
てると秦の貨幣は大きく重いので民間にキョウ銭を鋳
造させた。戦中インフレを招いた、文帝五年期にもキ
ョウ銭は供給が多く購買力がなかったので改めて四
シュ銭を民間に私鋳させて、盗鋳銭の令(私鋳貨禁
止の令)を止めた。これについて新鋭官吏の賈誼が
文帝を諌めた、(文帝三年に左遷されるので五年のこ
とではなく、十年前後のこと)民間の私鋳では卑金属
の混ぜ物が多く出て貨幣価値を乱し、また安易に偽
銭を造り法に触れる民を増やすことになると。しかし
文帝はこれを聞き入れなかった。呉は諸侯のなかで
鉱山を有していたので、富みは天子(文帝)に等しくな
った。またトウ通と言う大夫が鋳造で諸侯と富が等しく
なり、呉とトウ通の銭が天下に流通した。さて、劉邦
が戦時中民間の貨幣に頼ったのは分かる。しかし漢
書の文帝による私鋳貨禁止解禁のいきさつの記述は
不可解ではっきりしない。文帝が私鋳を許したのは呉
王の要請からの政治的政策か。自由主義経済学者
のハイエクには貨幣発行自由化論がある。管理貨幣
の不適切な供給から実体経済にあたえる撹乱を排除
するために貨幣は民間の金融機関に発行させて価
値の維持の競走をさせていれば優良な貨幣の流通
が実現できるとした。貨幣の私鋳政策で呉とトウ通の
銭が天下に流通したのであればハイエクの説に添っ
た良貨の選別がなされたことかもしれない。しかし大
きな財源になる政策を取らなかったことは、やはり呉
国の鉱山を召し上げる権力行使を伴うのでそれをは
ばかったのか。現代でも実現できないユニークな政策
であった。景帝期に呉楚七国の乱で呉を取り潰した
あとは私鋳貨は禁止されたようだ。ちなみに、紙幣は
中国で始まったそうだ。宋代から70年間厳密に管理
されて価値を落さなかった。しかし紙幣の運命はいつ
も王朝が倒れる時に大インフレーションを引き起こし
て政府とともに滅びていった。紙幣だけではない権力
管理通貨は政府の財政力が底をつくといつも価値を
落されて提供されるようになる。
^
史記 孝文帝本紀
「三年正月、お上云う『農は天下の本である。近くに
田畑を開け。朕自ら耕し、宗廟のお供えに給す』と。」
漢書/食貨志上では賈誼が文帝に説いて、漢が興っ
て四十年になるがまだ公私の穀物の蓄積備蓄が十
分でない。農を離れ商工に走っていて奢侈の風俗も
助長されている。大悪であるから民を帰農させるべき
だと。また管子の「倉廩満ちて礼節を知る」を引用す
る。漢書は文帝がこれに応じて上の令を発したとしている。
また孝文帝本紀では
「十四年、お上云う『農は天下の本である。務めとして
これよい大切なものはない。今日、農民は身を務め
て農事にしたがって、租税の割当がある。これでは本
末において異なるところがない(農と工商に国の優先
順位がない)。農を進める政策が不備である。田の租
税を廃止せよ』。」
これら二つのことは農業奨励策であるが、十四年ころ
には経済復興も相当進んだようで物資の流通も盛ん
になり、商業との釣り合いを考えた税による誘導でも
ある。古代においても経済は利潤の大きな分野が強
くなるから農業は奨励策が必要なことは今も昔も変わ
らなかった。当時の経済情勢はどんなようすだったのだろう。
漢書 賈誼伝によると(以下要約)今、民で奴隷を売
るものがこれに刺しゅうの服を着せ、絹糸で編んだ靴
をはかせ、檻にいれています。これは古へは天子の
キサキの服で、廟に入るときだけ着ていたものです。
帝は厚衣を着ておられ、キサキが襟に刺しゅうを施さ
れているのに、民の側女が刺しゅうで靴を縁取ってい
ます。これが臣の云う乱れです。この贅沢で労力を使
い民が餓えるなら邪を行なわないのを願うのはでき
ないことです。盗賊はただ時を待って起ってくるでしょう。
これは賈誼の儒家の観点の中のことばで文帝は何も
対策しないと嘆いている。身分不相応な奢侈だと官
尊民卑序列主義の経済観がうかがわれる。
漢書 食貨志上
「チョウソ云う、(前略)性急な政治は暴虐で、徴税が
止まらなければ、田宅を売り子孫を手放して負債を償
うものがあります。大商人は財を積み倍の利息をと
り、小商人は座して販売し、日に都市に遊ぶ。お上の
至急の調達があれば売値は倍に跳ね上がる。男は
耕さず女は織らず、着るものは綾があり食べるものは
軟らかい肉。農夫の苦労なくその財厚く王侯と交友す
る。・・立派な車に乗り馬にムチ当て、絹の靴をつけ
絹の衣を引きずっている。これは商人が農を兼業し、
農民が流亡する理由であります。今法律は商人を賎
しめていますが商人はすでに富貴です。農夫を尊ん
で農夫はすでに貧賎です。云々」
これらの意見を入れて文帝は十四年の田租免除を決
めたと漢書は云う。”田宅を売り子孫を手放して負債
を償うものがあります。”こう言うこともあっただろうが
常時のことではないだろう。昔も景気には好不況があ
った。不作で苦しい時はこのようであった。現代でも
不況期は倒産失業で苦しい。常時のことと思うのは
過去の歴史で陥りやすい貧民史観の誤りを犯すだろう。
時代の商人観が現れているのであろうが、チョウソが
法家であり、この時代管子が読まれていたとすれば
旧弊な商業認識でもある。第一次産業の生産が盛ん
になってくると流通業などの第二次産業が起ってくる
のは経済の流れだが、文帝は十二年のこと「帝、天
下に臨み、関所の禁を除き、橋梁を通じ、遠近を一つ
にする。」(孝文帝本紀)と商品流通に対応する政策
もとっている。婦人のミイラをともなって出土した馬王
堆漢墓は恵帝2年、長沙国の宰相に封ぜられたダイ
侯利蒼一族のものでミイラ当人は利蒼の妻で文帝期
12年後数年の間に埋葬されたものであった。絹織物
や漆器が多く出たが当時漆器は高価なものだった。
貴金属品がないのは「文帝の陵墓は焼き物を用い、
金銀銅スズで飾ることはできなかった。」ことから節喪
の禁令があったのではないかとも云われる。文帝期
12~14年は漢の経済もほぼ復興していたことを窺わ
せる。商業が盛んになると貨幣経済を介して資本の
集中も起ってくる。民間に富みが蓄積することを悪と
する思想は19世紀西欧にもあった。資本の蓄積は大
規模設備を必要とする産業革命を導いた。しかし手
工業からの軋轢を伴った粗野な機械工業化にマルク
スは搾取と民衆の疎外を感じ取った。マルクスは労
働者のために革命的前衛が代行する管理された産
業社会を構想したが・・。
法家のチョウソは文帝に説いて穀物を物納すると爵
位を与える政策で豪商の富で国庫を潤わす政策を実
行させた。しかし爵位には刑罰の免責特権があるの
で法の公正性からは問題がある。現代でも市場主義
で農作物価格を決めるわけにはいかず累進課税に
よる再分配金によって、政府の買い上げで農作物を
高く買い安く売るなどしている。累進課税も過ぎれば
逃税行為や脱税行為を誘発して問題がある。産業調
整はいつの時代も頭が痛い。
老子では道の玄徳としての発生論がある。
「萬物作って辞せず、生じて所有せず、為して恃ま
ず、功成って居らず。夫れただ居らず。是を以て去ら
ず。」2章
何事が起こってきても退けず、またそれを固定しよう
とせず。何事かを成してそれを頼まない。功績をあげ
て居座らない。何物にも依りかからず留まらないから
過去の者とならない。
老子の発生論は道は生み出だした事象を固定化しな
い、その成長を外からの計画で拘束しない。その事
象の内在する発展に任せていることである。農業の
奨励策は必要だが、商業を妨げることはまた道の玄
徳には合わない。
老子51章によれば
「これより産まれ、チチ飲まされ、形づくられ、活力を
与えられた。こうして万物は道を尊ばないものはな
い。この貴さの本質は、万象を成就させるのに命じて
作り上げるのではなく、それぞれ万象自ミズカらに形
づくらせることだ。そうだ、万象を産み、チチ飲ませ、
成長させ、安定させ、充実させ、庇護し、産みだして固
定せず、為して成果を当てにせず、成長させて支配し
ない。これを道の玄徳という。」
^
漢書 孝文帝紀 賛
「(文帝は)匈奴と親和を結ぶ。その後も盟約に背い
て進入し盗賊する。辺境の軍に守備させたが兵を発
して深くは追撃しなかった。百姓の患いを恐れたから
である。」
無為の7の和平にあたる。当時、匈奴は強大でしばし
ば長城の内に進入し荒らしていたが、長城の外まで
追い返しても深くは匈奴の地に攻め入らなかった。忍
従策を取っていたのは清静無為を守ることでは重大
要件であった。
^
漢書 刑法志
「文帝が位に就くに及んで自ら勉めて玄黙を守り、
(中略)将軍宰相等は皆、旧功臣で飾りなく質樸で、
亡秦の政治に凝り政議は温厚であった。人の過失を
云うを恥じ、教化は天下に行なわれ、人の過ちを告
げる俗習が変り、役人は官職に安んじ、民は家業に
励んだ。蓄えは年ごとに増し、家屋も次第に多くなっ
た。風俗が温厚になり、法網が簡略になった。張釈之
を選んで廷尉として疑わしい罪では民を許した。それ
で刑罰は省かれ重罪の判決は年にわずか四百件
で、刑を差置く風があった。」
無為の2 公正な法と政治。
無為の3 係争犯罪の少ない秩序ある社会
無為の4 簡素な政治。これは黄老道家の文献で強
調されるところで、多大な国家事業の煩瑣な患ワズラ
いは官の職務を混乱させ民に迷惑をかけると説かれ
る。
これらに当たる。張釈之は公正な裁きで讚えられた
人物。「人の過失を云う」とは無闇に告訴して裁判沙
汰に持ち込む俗習や細禍を咎めることがなくなったこ
とを云っていよう。また老子の人の悪口を告げない慎
言の風だろう。社会に争い事が少なくなった。文帝が
玄黙を守ったとは、あれをやれこれをやれと権力を多
用しなかったことだろう。賈誼の言葉に”助言するもの
が、為すなかれと云う”ばかりでそれに因る文帝を嘆
かわしいと云う下りがある。チョウソの言葉に”お上は
自ら為さらないで臣下を待っていられる”と苛立ってい
る下りがある。ここは法家と黄老道家の差異なのか、
文帝は国事を省くことに努めていたようだ。
文帝の経済対策からは「我無事にして民自ミズカら富
み」が見えたようだ。
つづく

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